メインコンテンツへスキップ
SOROU.JP日本全国情報ポータルサイト
瀬戸内が育てた広島の食文化——牡蠣・お好み焼き・酒が生まれた成り立ち
学び
7分で読める

瀬戸内が育てた広島の食文化——牡蠣・お好み焼き・酒が生まれた成り立ち

瀬戸内の海と太田川がつくった「食の街」

広島の食文化を理解する鍵は、地図にあります。市街地は中国山地から流れ下る太田川が運んだ土砂が積もってできたデルタ(三角州)の上に広がり、その先には穏やかな広島湾、さらに大小の島が点在する瀬戸内海が控えています。雨が少なく温暖な瀬戸内式気候、潮の満ち引きが大きい内海、山の養分を運ぶ川——この「山・川・海」が一続きにつながった地形こそが、牡蠣も小魚も酒も育てた土台です。広島の名物は単なるご当地グルメの寄せ集めではなく、安芸(あき)の風土が長い時間をかけて生み出した必然の産物なのです。ここでは料理を一品ずつ並べるのではなく、「なぜその味がこの土地で育ったのか」を、地形と歴史からたどってみます。

干満差と汽水が育てた牡蠣と小魚

広島湾で牡蠣の養殖が始まったのは、室町時代の天文年間(1532〜55年頃)とされ、広島は日本の牡蠣養殖発祥の地と言われています。牡蠣がよく育つのは、太田川などの淡水と海水が混じり合う「汽水(きすい)」の海。中国山地の森から流れ出る水は、牡蠣の餌となる植物プランクトンを豊富に含み、宮島など島々に囲まれた波静かな内海でじっくりと身を太らせます。閉ざされた穏やかな湾という地形が、そのまま味の理由になっているのです。

養殖の技術も広島で磨かれてきました。海に立てた木や竹に牡蠣を付着させる「ひび建て」から、大正時代には筏(いかだ)から牡蠣を海中に吊るす「筏式垂下法」が確立されます。潮の干満を利用して牡蠣を適度に空気へさらし、身を締めるこの方法は、今では世界中の牡蠣産地で使われる標準技術になりました。広島の牡蠣は、地形の恵みを人の工夫で引き出してきた歴史そのものと言えます。

同じ瀬戸内の海は、小さな魚の宝庫でもあります。なかでも広島の夏を象徴するのが「小いわし(こいわし)」。カタクチイワシのことで、梅雨の頃になると鮮魚店の店先に並びます。「鰯(いわし)七度洗えば鯛の味」ということわざがあるほどで、冷たい水で何度も丁寧に洗うと臭みが抜け、身が締まって上品な味わいに変わります。新鮮なものを刺身でいただくのは広島ならではの食べ方で、しょうゆとおろし生姜で味わう一皿は、瀬戸内の海の近さを舌で実感させてくれます。

デルタの街と戦後復興が生んだ「重ね焼き」

広島を語るうえで欠かせないお好み焼きは、その成り立ち自体が街の歩みと重なります。ルーツは、大正期に東京で生まれた「どんどん焼き」が西日本へ伝わり、水で溶いた小麦粉を薄く焼いてソースを塗った「一銭洋食(いっせんようしょく)」。戦前は駄菓子屋で売られる子どものおやつでした。

転機は終戦後です。原爆と空襲で焦土となった街に、占領軍の配給で小麦粉が多く出回りました。人々はこの粉を使い、かつてのおやつだった一銭洋食を、海産物や野菜、のちには麺まで重ねた腹持ちのよい一品へと育てていきます。生地と具を混ぜずに層へ重ねて焼く「重ね焼き」は、関西の「混ぜ焼き」とは別系統の、広島独自のスタイルです。昭和25年頃には新天地(しんてんち)あたりの屋台がにぎわい、昭和30年代に焼きそば麺や豚肉が加わって、今日の形が固まりました。やがて屋台から発展した店が一棟に集まる「お好み村」も生まれます。キャベツをたっぷり使い、ふっくらと蒸し焼きにする一枚は、復興の街が育てた庶民の味そのものなのです。

中国山地の軟水が生んだ「酒都」

意外に思われがちですが、広島は灘(なだ)・伏見(ふしみ)と並ぶ日本有数の酒どころです。鍵を握るのは、ここでも水。中国山地に磨かれた広島の仕込み水はミネラルの少ない「軟水」が多く、かつては酵母の働きが鈍く、よい酒は造りにくいとされていました。

この常識を覆したのが、安芸津(あきつ/現・東広島市)の酒造家・三浦仙三郎(みうらせんざぶろう)です。彼は失敗を重ねながら研究を続け、明治30年(1897年)に軟水でも醸せる「軟水醸造法」を確立。翌年には『改醸法実践録』を著し、温度や時間を計って造る科学的な酒造りを広めました。「百試千改」を信条とした三浦のもとからは、安芸津杜氏(とうじ)という職人集団も育ちます。その成果は明治40年(1907年)の第一回全国清酒品評会で実を結び、広島の酒が灘・伏見を抑えて上位を占め、「三大銘醸地」としての名声を確かなものにしました。今も酒蔵が白壁を連ねる東広島市の西条(さいじょう)は「酒都(しゅと)」と呼ばれ、秋の「酒まつり」には全国から人が集まります。広島の酒は、不利だったはずの水質を技術で逆手に取った、土地と人の知恵の結晶なのです。

宮島参詣が運んだ駅弁と銘菓

世界遺産厳島神社を擁する宮島は、古くから参詣客でにぎわう特別な島でした。その人の流れが、二つの名物を生み出します。

一つは「あなごめし」。宮島近海では昔から穴子がよく獲れ、地元では穴子の丼が親しまれていました。明治34年(1901年)、宮島口にあたる宮嶋駅(現・宮島口駅)の駅弁として、上野他人吉(うえのたにきち)が穴子のあらで炊いた醤油味のご飯に焼き穴子を敷き詰めた弁当を売り出します。鉄道の開通と参詣客という追い風を受け、これが山陽路を代表する駅弁として定着しました。海の幸と、人が集まる島という条件が重なって生まれた味です。

もう一つが「もみじ饅頭」。明治39年(1906年)、和菓子職人の高津常助(たかつつねすけ)が、紅葉の名所・紅葉谷(もみじだに)の旅館「岩惣(いわそう)」の求めに応じて考案したと伝わります。カステラ生地にこし餡を包んだ、当時としてはハイカラな菓子で、明治43年(1910年)には紅葉をかたどった焼き型を商標登録。やがて宮島土産の代名詞となり、今ではチーズやクリームなど多彩な進化形も並びます。いずれも、信仰の島に集う人々をもてなす文化のなかから育った味なのです。

現代へ続く瀬戸内の食

広島の食文化は、今も更新され続けています。2000年代に火がついた「汁なし担々麺」もその一つ。市内・舟入(ふないり)のラーメン店の店主が、故郷である中国・四川省の味を再現してほしいという中国人留学生の願いをきっかけに、平成13年(2001年)頃から提供を始めたのが広まりとされ、花椒(ホアジャオ)の痺れる辛さで全国的なブームを呼びました。古い郷土料理だけでなく、新しい一皿も生まれ続けているのが、この街の懐の深さです。

瀬戸内の島々に目を向ければ、尾道市の生口島(いくちじま)は国産レモンの一大産地。広島県は国産レモンの生産量で日本一を誇り、雨が少なく温暖な瀬戸内式気候が栽培を支えています。皮ごと使える広島レモンは、焼き牡蠣に絞り、菓子や飲み物に香りを添えて、瀬戸内の食卓を爽やかに彩ります。山と川と海がひと続きにつながる安芸の風土は、これからも新しい味を生み出し続けることでしょう。広島を旅するなら、一皿ごとの背景にある「なぜ」に思いを巡らせてみてください。食の時間が、ぐっと深く面白くなるはずです。

シェアする

Written by

高橋 大地

アグリツーリズム推進者

この記事のエリアで学びを探す

Related Columns

日本刀×日本文化体験

観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。