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金沢の食文化はなぜ生まれたか――加賀百万石・茶の湯・北前船が育てた食の物語
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金沢の食文化はなぜ生まれたか――加賀百万石・茶の湯・北前船が育てた食の物語

「食」もまた、加賀百万石の文化だった

金沢の食を語るうえで欠かせないのが、加賀百万石を治めた前田家の存在です。徳川幕府にとって最大の外様大名であった前田家は、軍事的な野心を疑われないよう、その財力を学問・工芸・茶の湯といった文化事業へ惜しみなく注いだとされます。この「文化への投資」は食卓にも及び、料理・菓子・器・もてなしが一体となって磨かれていきました。金沢の食文化が今も独特の格式と奥行きを持つのは、豊かな山海の幸に加え、三百年近くにわたって食を一つの「文化」として育てた歴史があるからです。ここでは名店案内ではなく、その成り立ちをたどってみます。

茶の湯が育てた、和菓子の街

金沢が「和菓子の街」と呼ばれる源流は、茶の湯にあります。藩祖・前田利家と二代利長は千利休の直弟子であり、三代利常は裏千家の成立に深く関わる仙叟千宗室を金沢へ招くなど、歴代の藩主が茶道を篤く奨励しました。茶席に欠かせないのが和菓子です。加賀藩は城下に御用菓子屋を置いて菓子を献上させ、これが金沢の菓子文化の母体となりました。二代将軍秀忠の娘・珠姫が利常に輿入れした際に創られたと伝わる「五色生菓子」や、茶席を彩る落雁などの干菓子は、こうした土壌から生まれています。当初は武家のものだった菓子が庶民へと広がる橋渡しをしたのは、寺でした。古くから浄土真宗(一向宗)の信仰が篤い土地柄もあって、宗祖の祥月命日を前後に営む報恩講ではお供えの落雁や饅頭が人々にふるまわれ、菓子を口にする習わしが暮らしのなかへ根づいていきました。婚礼や節句に菓子を贈り合う金沢の風習も、こうした流れのなかで育まれたものです。

北前船が運んだ昆布だしと、保存の知恵

金沢のだしの土台をつくったのは、海でした。江戸から明治にかけて日本海を行き来した北前船にとって、金沢は重要な寄港地です。蝦夷地(北海道)から運ばれた昆布は金沢料理のだしの基盤となり、上方から届いた砂糖は前述の和菓子文化を支えました。北の海のニシンや鮭・鱈といった、それまで北陸の食卓に縁の薄かった魚も加わり、長い船旅に耐えさせるため干物や塩蔵に加工する技術もともに根づいていきます。一方で、冬の日本海は荒れて漁に出られない日が続き、雪に閉ざされて作物も乏しくなります。この厳しさが、魚介を塩や糀で長く保たせる保存・発酵の知恵を育てました。石川・北陸に今も伝わる「こんか漬け」などのぬか漬け文化も、この北国の暮らしが生んだ知恵といえます。その代表が、かぶらに寒ブリを挟んで糀で漬け込むかぶら寿しです。起源には諸説あり定かではないとされますが、宝暦年間(十八世紀半ば)には年賀の客に供したという記録が残ります。貴重なたんぱく源と地元のかぶらを掛け合わせた、北国らしい冬の保存食として受け継がれてきました。

武家の膳が伝える、加賀料理

加賀料理の象徴とされるのが治部煮です。鴨や鶏に粉をまぶし、すだれ麩や青菜とともに煮て、とろみのある汁にわさびを添える一椀で、前田家に仕えた料理人が十八世紀前期に著したとされる料理書にも、これに近い料理が見えます。名の由来は、武将・岡部治部右衛門にちなむ説、材料を「じぶじぶ」と煮る音から来たとする説など諸説あり、定説はありません。煮汁をよく吸う「すだれ麩」は加賀藩の料理人が考案したと伝わる金沢ならではの麩で、武家の格式ある膳が、今も家庭やもてなしの席に息づいていることを物語ります。

用水が潤した、加賀野菜

金沢は「用水の街」でもあります。三代利常が板屋兵四郎に命じ、寛永九年(一六三二)に完成させた辰巳用水をはじめ、市内には数十もの用水が張り巡らされてきました。本来は防火や城内への水の確保が主目的でしたが、その水はやがて周辺の田畑をも潤し、明治の半ばには農業用水として広い水田を潤したとも伝わります。蓮田や畑作を支えたこうした土と水、そしてそれを守った人の手に育まれてきたのが「加賀野菜」です。昭和二十年以前から作り続けられてきた品目のうち、特に個性ある十五種を金沢市が認定したもので、その素性はさまざまです。藩政期から栽培される加賀れんこんは三百年以上の歴史を持つ古参ですが、「源助だいこん」は昭和七年に愛知から導入した品種を在来種と交配し、昭和十七年に育てた比較的新しい品種です。鮮やかな紫が美しい「金時草」は熱帯アジア原産で中国を経て伝わり、熊本では水前寺菜と呼ばれますが、金沢では独自の呼び名とともに今も主産地として守られています。

金箔がきらめく食卓――加賀の美意識

加賀の文化政策は、食卓の「美」にも及びました。金沢の金箔は、前田利家が文禄二年(一五九三)に箔を打たせたのが始まりとされ、徳川幕府の箔打ち禁令ののちも加賀藩の細工所でひそかに技が守り継がれました。湿潤な気候が箔打ちに適したこともあり、今日では国内の金箔生産のほぼすべて(約九十九パーセント)を金沢が担います。工芸として磨かれた金箔は、やがて和菓子や酒、料理を彩る食用箔として食卓にまで届きました。一片の金箔がきらめく菓子や一杯の酒は、「食もまた文化」と考えた加賀の美意識の、もっとも華やかな結晶といえるでしょう。金沢で味わう一皿一椀の背景には、こうした歴史が静かに重なっているのです。

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Written by

中村 陽子

クラフトジャーナリスト

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