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札幌の食文化はなぜ生まれた?——開拓使と屯田兵がゼロからつくった食の成り立ち
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札幌の食文化はなぜ生まれた?——開拓使と屯田兵がゼロからつくった食の成り立ち

札幌の食文化は「百五十年の開拓」がつくった

札幌の食を語るとき、京都の千年や金沢の城下町文化のような「古い伝統」を探しても、あまり見つかりません。札幌が本格的な都市として歩みはじめたのは、明治2年(1869年)に明治政府が開拓使を置き、蝦夷地を「北海道」と改めてからのこと。つまり札幌の食文化は、わずか百五十年ほどの間に、開拓使と屯田兵、海を越えて招かれた外国人技師、そして日本各地から移り住んだ人々の手で、ほとんどゼロから組み立てられた、きわめて若い食文化なのです。個々の名物を並べる前に、「なぜそれが札幌で育ったのか」という背景からたどってみましょう。

米をあきらめ、畑と牧場を選んだ土地

札幌の食の輪郭を決めた最初の判断は、開拓使の農業方針でした。寒冷で広大な石狩平野は稲作に向かないと考えた開拓使は、欧米にならった畑作と牧畜北海道農業の柱に据えます。主食も、米と魚ではなくパンと肉を中心とする洋食が北の暮らしに合うとし、それらを自給して本州へ供給することを開拓の基本方針に掲げました。

この土台の上で、明治7年(1874年)に制度化された屯田兵が、防備のかたわら広大な原野を畑へと変えていきます。今でこそ北海道の代表格となったじゃがいも・大豆・小麦・とうもろこし(とうきび)といった畑作物は、この屯田兵らの開墾によって基盤が築かれたものでした。米どころのイメージが薄く、いも・豆・乳製品・肉が食卓の主役になる札幌の食の骨格は、この「畑と牧場を選んだ」初期方針にさかのぼります。

アメリカ式農業がもたらしたもの——クラークとダン

開拓使は、進んだ技術を求めてアメリカから多くのお雇い外国人を招きました。なかでも食の方向を決めたのが二人の人物です。

一人は、明治9年(1876年)に札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭として着任したW.S.クラーク。彼が札幌にいたのはわずか八か月余りでしたが、生徒が実際に耕す実習農場「農黌園(のうこうえん)」を開き、アメリカ式の畜力を使った大規模な畑作農業の手法と、それを担う人材を残しました。クラークが伝えたのは特定の作物というより、北の大地を機械力で拓くための農のかたちそのものでした。

もう一人が、獣医のエドウィン・ダンです。彼は同じ明治9年、札幌南部の真駒内に牧牛場(のちの真駒内種畜場)を築き、牛や豚を飼いながら、バター・チーズ・練乳といった乳製品や、ハム・ソーセージの加工技術を指導しました。今に続く「北海道=酪農・乳製品」というイメージの源流は、この真駒内の牧場にあります。クラークが農法と教育を、ダンが畜産と乳製品を——それぞれ別の役割で、札幌の食の方向を決めたのです。

開拓使が生んだビール——氷雪の地だからこそ

開拓使の事業のなかでも、のちに札幌の顔となったのがビールです。明治9年(1876年)、札幌に開拓使麦酒醸造所が開業しました。今のサッポロビールの源流です。

当初、醸造所は東京に建てる計画でした。しかし、ドイツでビール造りを学んだ日本人初の本格的な醸造技師中川清兵衛が手がけるのは、低温でじっくり発酵・熟成させるラガービール。大量の氷と安定した低温が欠かせません。そこで責任者の村橋久成が「氷雪に恵まれた札幌でこそ造るべきだ」と進言し、計画を北の地へ動かしました。寒さという札幌の弱点を、そのまま強みに変えた発想です。完成したビールには開拓使の象徴である北極星のラベルが添えられ、冷涼な気候を生かしたビール造りは、この街の産業として根を下ろしていきました。

羊毛政策から生まれたジンギスカン

札幌を代表する羊肉料理ジンギスカンもまた、はじめから食べるために生まれたのではなく、まったく別の事情から育った料理です。きっかけは羊毛でした。第一次世界大戦で羊毛の輸入が途絶えたことを受け、政府は大正7年(1918年)に緬羊(めんよう)百万頭計画を打ち出し、羊毛の国産化を目指します。その拠点として、札幌の月寒(つきさむ)や空知の滝川など全国五か所に種羊場が置かれました。

羊を飼えば、肉も余ります。そこで種羊場では羊肉の活用法も研究され、試行錯誤の末に生まれたのがジンギスカンでした。元滝川種羊場長の山田喜平が昭和6年(1931年)に著した『緬羊と其飼ひ方』には、その初期のレシピが記されているといわれます。焼いた肉をたれにつける「札幌式」と、たれに漬けた肉を焼く「滝川式」という食べ方の違いも、種羊場の置かれた街ごとに育った流儀の名残です。羊毛のための政策の副産物が、いまや北海道遺産に選ばれる食文化になったのです。

北の海と川がもたらした保存と鍋の文化

開拓地の食を支えたもう一つの柱が、北の海と川の幸でした。ここは帰属を正確にしておきたいところで、いずれも札幌の市街そのものではなく、周辺の海や川で育った文化です。

日本海沿岸では、明治から大正にかけてニシン漁が全盛を迎えます。小樽や積丹(しゃこたん)の漁場は巨万の富を生み、網元は豪壮な鰊御殿(にしんごてん)を建てました。獲れたニシンは生で食べるだけでなく、保存のきく身欠きにしんや数の子に加工され、肥料の原料としても道内の畑を支えます。一方、石狩川の河口に近い石狩では、サケ漁の漁師たちが大漁を祝い、ぶつ切りのサケとあらを味噌仕立ての鍋で煮た賄い料理が生まれました。これが石狩鍋の原型で、河口の割烹「金大亭」が世に送り出したと伝わります。海と川の恵みを、寒い土地でどう保存し、どう温かく食べるか——その工夫が、道内各地から札幌に集まる食材の幅を支えてきました。

アイヌの食と、各地からの移民の食

札幌の食文化を語るうえで忘れてはならないのが、もともとこの大地で暮らしてきたアイヌの人々の食と、開拓のために日本中から集まった移民の食が交わった点です。春に芽吹く行者にんにくが「アイヌねぎ」とも呼ばれるように、北の自然から得る山菜やサケといったアイヌの食の知恵は、開拓者の暮らしにも溶け込んでいきました。

そこへ、本州・四国・九州の各地から移り住んだ人々が、それぞれの故郷の料理や調味の習慣を持ち寄ります。北海道の食はしばしば「日本各地の食の集大成」と評されますが、人と物が集まる札幌は、その縮図がもっとも色濃く表れる場でした。誰の故郷の味でもあり、特定のどこかの味でもない——その自由さが、新しい料理を受け入れる素地になりました。

古い型がないから、札幌は「発明」した

そうした若い都市の自由さが、戦後にいくつもの名物を生み出します。味噌ラーメンは、昭和29年(1954年)にすすきのの「味の三平」店主・大宮守人が考案し、翌昭和30年(1955年)に雑誌『暮しの手帖』で紹介されて全国へ広まりました。スープカレーも、昭和46年(1971年)に円山で開いた喫茶店「アジャンタ」が、スパイスと漢方を合わせた薬膳のスープから育てたもので、具を入れる今のかたちは昭和50年(1975年)ごろに整い、「スープカレー」という呼び名は1990年代に広く定着しました。

守るべき古い型がなかったからこそ、札幌は外から来たものを臆せず取り入れ、新しい一皿に仕立て直してきました。一杯のビール、一皿のジンギスカン、湯気の立つ味噌ラーメン——その背後には、稲作をあきらめて畑と牧場に賭けた開拓使の判断や、羊毛政策、海と川の漁、そして各地から集った人々の歴史が、幾重にも折り重なっています。札幌の食を味わうことは、百五十年の開拓そのものを味わうことなのです。

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Written by

松本 海斗

スポーツインストラクター

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