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城下町・米どころ・漁場が育てた味——仙台の食文化はなぜこの形になったのか
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城下町・米どころ・漁場が育てた味——仙台の食文化はなぜこの形になったのか

仙台の食を読み解く三つの軸

仙台の食文化は、思いつきで集まった名物の寄せ集めではありません。西に奥羽山脈、東に太平洋という地形のあいだに広瀬川・名取川がつくった仙台平野が広がり、その米どころに伊達政宗が築いた城下町が重なり、さらに仙台湾の漁場が日々の食卓を支えてきました。つまり「城下町の商い」「平野の稲作」「海と川の恵み」という三つの背景が交わったところに、いまの仙台めしの輪郭があります。ここでは個々の料理を「どこで食べるか」ではなく、「なぜこの土地で育ったのか」という視点からたどってみます。

伊達政宗の城下町経営と仙台味噌

仙台の食を語る起点は、やはり初代藩主・伊達政宗の街づくりです。政宗は食通として知られ、保存のきく兵糧の研究にも熱心だったと伝えられます。その象徴が仙台味噌です。米麹を使った辛口の赤味噌で、藩は仙台城下に御塩噌蔵(ごえんそぐら)と呼ばれる味噌醸造所を設け、城下の商人にその運営と製造を担わせました。寛永3年(1626年)に味噌御用を勤めた真壁屋市兵衛が国分町で「仙台味噌」の看板を掲げたのが元祖とされ、藩の需要を背景に味噌づくりが産業として根づいていきます。

なお、「政宗が朝鮮出兵に持参した味噌が夏でも腐らず、他の武将に乞われて評判になった」という逸話が広く語られますが、これは史実とは合いません。出兵当時の政宗の居城は岩出山城であり、「仙台」という地名そのものが慶長5年(1600年)以降に政宗が名づけたものだからです。逸話は逸話として、仙台味噌の実像は藩の城下町経営が生んだ醸造文化にあります。この辛口味噌が、後述するおでんや煮込み、汁物の土台となって食卓全体の味を方向づけていきました。

仙台平野の米が育てた餅とずんだ

広い仙台平野は、藩政期から新田開発が進んだ有数の米どころです。米が豊かな土地では、ハレの日に餅をつく文化が深く根づきます。仙台周辺でも、節句や祝い事に餅を用意し、さまざまな餡や具で楽しむ習わしが受け継がれてきました。

その餅文化と、平野で育つ枝豆が出会って生まれたのがずんだです。茹でた枝豆をすりつぶし、薄緑のなめらかな餡にして餅にまとわせます。名前の由来には諸説あり、豆を打ち砕く作業を指す「豆打(ずだ)」が転じたとする説が有力とされる一方、政宗が陣中で刀の柄を使って枝豆を潰したという伝承や、甚太という人物の名にちなむ説も語り継がれています。いずれにせよ、ずんだは米と豆という平野の実りが結びついた、仙台らしいハレの味だといえます。

仙台湾と近海が支えた魚の食文化

太平洋に開けた仙台湾は、暖流と寒流が出会う豊かな漁場です。この海の恵みが、仙台を代表する練り物笹かまぼこを生みました。

笹かまぼこの始まりは明治期。閖上(ゆりあげ)から金華山にかけてヒラメが大漁に揚がった年が続き、当時は輸送や保存の手段が乏しく、余ったヒラメを使い切る工夫としてかまぼこ作りが広まったと伝えられます。仙台のかまぼこ店が笹の葉の形に焼き上げたのが原型で、当初は「べろかまぼこ」「手のひらかまぼこ」などと呼ばれていました。昭和に入り、伊達家の家紋「竹に雀」にちなんで「笹かまぼこ」の呼び名が定着します。現在ではヒラメの漁獲が減り、スケソウダラなどの白身魚が主原料となっていますが、近海の魚を無駄なく食べる発想が形を変えて今に続いているのです。

川と海の境目から——はらこ飯と名取のせり

仙台湾に注ぐ川の河口域もまた、独自の食を育てました。注意したいのは、ここで取り上げる二品が仙台市そのものではなく、仙台平野の南側に位置する町の郷土食だという点です。

まずはらこ飯。これは仙台市の南、亘理町(わたりちょう)の荒浜地区を発祥とする料理です。秋に阿武隈川を遡上する鮭を、醤油や味醂で煮た煮汁でご飯を炊き込み、その上に鮭の身と「はらこ(イクラ)」を盛ります。もとは地引網で鮭を獲っていた地元の漁師飯で、後に政宗が亘理を訪れた際に献上されたという伝承も残ります。鮭の親(身)と子(卵)を一椀で味わう、河口の町ならではの秋の味覚です。

もう一つが名取市を代表するせり鍋。せりはセリ科の多年草で、宮城の伝統野菜として古くから親しまれ、名取での栽培は江戸時代初めにさかのぼります。県内産の多くを名取が占めるほどの産地で、根まで丸ごと食べるのが名取のせりの真骨頂です。ただし、せりを主役に据えた「せり鍋」自体は比較的近年に確立したご当地鍋で、長い栽培の歴史と料理としての歴史は分けて捉えるのが正確です。香り高い葉と、独特の食感をもつ白い根を、出汁にさっとくぐらせて味わいます。

戦後復興が生んだ牛タン焼き

仙台名物の代名詞ともいえる牛タン焼きは、ここまでの料理と違って戦後に生まれた、比較的新しい食文化です。発祥は、焼き鳥店などを営んでいた佐野啓四郎が開いた店「太助」とされます。佐野は山形県の出身で、東京での修業時代に洋食店のタンシチューで牛タンの旨さを知ったと伝えられ、戦後の物資が乏しい時代に、当時あまり使われていなかった牛の舌を活かす道を探りました。試行錯誤の末、塩と胡椒で下味をつけて炭火で焼く方法に行き着き、1948年に開いた太助で牛タン焼きが形になっていきます。

「占領軍が良い部位を持ち去り、残った牛タンが安く出回ったのが始まり」という背景もしばしば語られますが、これは俗説的な側面が強く、確かな記録というより当時の食糧事情を物語る逸話として受け止めるのが妥当です。確かなのは、戦後復興期の仙台で、一人の料理人が安価な部位を名物へと磨き上げたという流れです。その後、後進の専門店が続き、仙台駅周辺で「仙台名物」として打ち出されたことで全国に広まりました。なお、使われる牛肉の多くは産地を問わず仕入れられたもので、地元育ちの牛に限る料理ではありません。あくまで牛タンを名物に育てた食文化が仙台のものだという点が核心です。

城下をつなぐ食の圏域——白石温麺

最後に、仙台を中心とした食文化圏の広がりにも触れておきます。仙台市の南、蔵王の麓に位置する白石市は、仙台藩の重臣・片倉氏の城下町として栄えました。ここで生まれたのが白石温麺(しろいしうーめん)です。

言い伝えでは、約400年前、胃腸の弱い父を案じた鈴木味右衛門という青年が、旅の僧から油を使わない麺の製法を教わって作り、父の食欲が戻ったとされます。この親孝行に感じ入った白石城主が「温かい心の麺」として「温麺」と名づけたと伝わります。長さ約9センチと短く、油を使わず小麦粉と塩水だけで仕上げる素朴な乾麺で、消化のよさが身上です。仙台の牛タンや味噌とはまた違う、県南・白石ならではの来歴をもつ食文化として、城下町のつながりの中に位置づけられます。

まとめ——背景を知ると味の見え方が変わる

こうしてたどると、仙台の食は「政宗の城下町経営(味噌)」「仙台平野の稲作(餅・ずんだ)」「仙台湾と河口の恵み(笹かまぼこ・はらこ飯・せり)」「戦後復興(牛タン)」という、土地と時代の積み重ねとして読み解けます。はらこ飯は亘理、せり鍋は名取、温麺は白石——それぞれの所在まで知ると、一皿の背後にある地形と歴史が立ち上がり、同じ味でも奥行きが違って感じられるはずです。

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Written by

高橋 大地

アグリツーリズム推進者

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