学び
名古屋めしはなぜ生まれた?——豆味噌と喫茶文化でたどる名古屋の食の成り立ち
名古屋めしの正体は「豆味噌」と「喫茶」の二本柱
名古屋の食文化は、派手で濃い「名古屋めし」のイメージで語られがちです。しかしその成り立ちをたどると、根っこにあるのは二つの太い柱——三河で育った豆味噌(赤味噌)の食文化と、尾張の商人気質が磨いた喫茶のサービス文化です。濃尾平野の産物と東海地方の気候、そして堅実を旨とした土地柄が組み合わさって、ほかの都市にはない独特の食の風景が生まれました。ここでは個々の料理を並べるのではなく、「なぜそれが名古屋で育ったのか」という背景から、名古屋めしの全体像をたどってみます。
風土が生んだ豆味噌——基盤は三河・岡崎の八丁味噌
名古屋の食の土台を語るうえで欠かせないのが豆味噌です。米や麦の麹を使う一般的な味噌と違い、豆味噌は大豆に直接麹菌をつけて仕込みます。これは、夏に高温多湿となる東海地方では米麹・麦麹だと傷みやすく、大豆に麹を生やすことで安全に仕込めるという、風土に根ざした知恵から発達したといわれます。
その代表格が八丁味噌です。ここで帰属を正確にしておきたいのですが、八丁味噌の本場は名古屋ではなく、愛知県岡崎市の八帖町(旧・八丁村)。徳川家康が生まれた岡崎城から西へ八町(約870メートル)離れた地名が、そのまま名前になりました。矢作川の舟運と旧東海道が交わる水陸交通の要衝で、原料の大豆や塩を運び込みやすかったこの地で、カクキューとまるや八丁味噌の二軒が、二夏二冬以上かけて熟成させる濃厚な豆味噌を造り続けてきました。この三河の豆味噌文化が、隣接する尾張・名古屋の食を下支えしてきたのです。
豆味噌から枝分かれした料理たち
豆味噌を基盤に置くと、名古屋めしの「濃い味」の正体が見えてきます。
冬の定番味噌煮込みうどんは、山梨の「ほうとう」と八丁味噌が結びついて生まれたとされる郷土料理。固めに打った麺を、豆味噌仕立ての汁で土鍋ごと煮込みます。味噌カツの由来には諸説あり、戦後の屋台で串カツをどて煮(牛すじやモツを赤味噌で煮込む料理)の鍋に浸して食べたのが始まり、ともいわれます。そのどて煮や味噌おでんも、豆味噌をじっくり煮詰めた濃厚なだれが主役です。いずれも、強い旨味とコクを持つ豆味噌があってこそ成立する料理群で、味噌文化が名古屋めしの背骨であることがよく分かります。
濃尾平野の恵み——川魚と粉物
豆味噌と並ぶもう一つの源泉が、木曽三川と伊勢湾に抱かれた濃尾平野の産物です。
水郷地帯はうなぎの名産地でもあり、ここから生まれたのがひつまぶし。明治6年創業の熱田の老舗あつた蓬莱軒が、出前の器が割れないようにと工夫し、刻んだうなぎをご飯に「まぶして」提供したのが始まりと伝わります。一杯目はそのまま、二杯目は薬味、三杯目は出汁をかけて——という食べ方は、川魚をあますことなく味わう知恵でもありました。
粉物の代表きしめんも、この地域の産物です。平打ちの麺は、三河の芋川(現・刈谷市)の名物「ひらうどん(ひもかわ)」が語源・ルーツとされ、それが名古屋に根づいて「きしめん」と呼ばれるようになった、という説が知られています。平たい麺はゆで時間が短く出汁がよく絡む、合理的な麺でもありました。
戦後に花開いた「名古屋の郷土中華・外食」
名古屋めしのもう一つの顔は、戦後の復興期に外食店から生まれた料理群です。商工業都市として人が集まり、しっかり腹を満たせる濃い味が好まれた土壌から、独自の名物が次々と誕生しました。
台湾ラーメンは、今池の台湾料理店味仙の店主が、台北で食べた担仔麺(タンツーメン)をもとに1971年頃に考案したもの。唐辛子とにんにくの効いたひき肉をのせた激辛麺で、「台湾には存在しない名古屋発祥の台湾ラーメン」として知られる、いわば名古屋生まれの郷土中華です。とろみのソースをまとった極太麺のあんかけスパゲッティは洋食店「ヨコイ」が元祖とされ、手羽先唐揚げは1963年に「風来坊」が、それまであまり使われなかった手羽先を香ばしいたれで名物に育て上げました。いずれも、働く人々の胃袋を満たす力強い味として広まっていきました。
商人気質が育てた「喫茶とサービス」の文化
名古屋を語るとき、料理と並んで欠かせないのが喫茶店文化です。尾張地方には江戸時代から茶の湯に親しむ素地があり、戦後は仕事の合間に一服する習慣と結びついて、独特の喫茶文化が花開いたといわれます。
その象徴がモーニング。ここも帰属に注意が必要で、発祥は名古屋市内ではなく、繊維産業で栄えた一宮市とされます。1950年代、機織りの騒音を避けて喫茶店で商談する常連客へのサービスとして、コーヒーに卵や豆を添えたのが始まり。これが繊維問屋街を介して名古屋に伝わり、おもてなし好き・差別化好きの土地柄に合って一気に広まったといわれます。小倉トーストもこの流れの中で、大正期に栄にあった喫茶店「満つ葉」で生まれたと伝えられます。学生がトーストをぜんざいに浸して食べるのを見た店主が、はじめから餡をのせて出したのが起こりだそうです。
和菓子のういろうは誤解されがちなので付け加えると、これは名古屋発祥ではありません。ルーツは室町期の京都の外郎家にあり、小田原や山口にも本家筋が伝わります。名古屋には江戸前期に伝来し、のちに駅売りなどを通じて全国区の名物として定着した——という経緯です。
質実と派手——名古屋めしを貫く二面性
こうして見ると、名古屋めしは「豆味噌という風土の知恵」と「商人気質が磨いたサービス精神」という、堅実さと派手好きの二面性の上に立っていることが分かります。徳川御三家・尾張藩のお膝元として蓄えた経済力と、ものを無駄にしない実質本位の気風が背景にあるといわれ、その両輪が、濃い味の料理から喫茶のおもてなしまで独自の食文化を育てました。一皿の名物を味わうとき、その向こうにある濃尾平野と三河の味噌蔵、そして街の喫茶店の歴史まで想像すると、名古屋の食はぐっと奥行きを増すはずです。
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