学び
海と米の無い土地で — 松本・中信が育てた食文化の成り立ち
海に最も遠い盆地が育てた、保存と工夫の食
松本は、海から最も遠い土地のひとつに開けた城下町です。標高およそ600メートルの松本平は、西に北アルプス、東に美ヶ原をいだく内陸の盆地で、冬の冷え込みは厳しく、夏でも朝晩は涼しい高冷地です。この「海が無く、米がつくりにくく、冬が長い」という三つの不利こそが、中信地方(松本・塩尻・安曇野・木曽一帯)の食文化を形づくった出発点でした。松本の食を歴史からたどると、それは不足を知恵で補ってきた、保存と工夫の物語として浮かび上がってきます。
塩の道が語る「海の無い暮らし」
松本平の食を読み解く最初の鍵は「塩」です。海に面さない信州では塩が穫れず、日本海側の糸魚川から松本まで、約120キロにおよぶ千国街道(ちくにかいどう)を牛馬の背で塩や海産物が運ばれてきました。後に「塩の道」と呼ばれるこの道は、戦国時代、今川・北条が武田領への塩を断ったとき、敵将の上杉謙信が義として塩を送ったと伝わる舞台でもあり、「敵に塩を送る」という言葉の由来ともされます。松本市街で毎年一月に開かれる「あめ市」は、かつての塩市の名残と伝わる伝統行事です。
塩でさえ運ばねば手に入らない土地ですから、生鮮の海の魚は当然届きません。だからこそ松本の人々は、タンパク源も冬の蓄えも、すべて山と里の中で工面する必要がありました。これから挙げる料理の一つひとつが、その必要から生まれています。
米が穫れない土地が磨いた「そば」
冷涼で痩せた高冷地は稲作に向かず、中信の山あいでは古くから米に代えてそばや雑穀が育てられてきました。そばは生育期間が短く、やせ地や冷気にも強い、いわば山国の保険のような作物です。信州が「そば処」と呼ばれる背景には、この切実な事情があります。麺状の「そば切り」の最も古い記録の一つは、天正二年(1574年)に木曽の定勝寺で振る舞われたものとされ、その舞台が中信の木曽谷であったことは、この地とそばの縁の深さを物語ります。
松本のそば文化を象徴するのが、奈川(ながわ)地区発祥の「とうじそば」です。明治の末まで田を持たず、そばを主食としてきた奈川では、来客や祝い事の折、きのこや山の獣肉で出汁をとった鍋に、小さな籠で茹でそばをくぐらせて温め、客をもてなしました。「とうじ」は汁に浸す「湯じ」が語源と伝わります。日々の常食であったそばを、ハレの日のごちそうへと昇華させた知恵が、ここにあります。
山に求めたタンパク源 — 馬肉と昆虫食
海の魚が届かない信州では、動物性タンパク質を内陸の素材に求めてきました。その代表が馬肉です。運搬や農耕に欠かせなかった馬は、役目を終えると貴重な食料となり、明治の中頃には馬刺しや桜鍋として広く食べられるようになります。馬肉文化がとりわけ濃いのは伊那谷など南信ですが、松本にも馬刺しを供する食文化が根づき、城下町の酒の肴として親しまれてきました。
もう一つが昆虫食です。蜂の子やイナゴは、限られた動物性タンパクを補う栄養源として、中信を含む県内各地で食されてきました。稲刈り後の田で大量に獲れたイナゴの佃煮はその典型です。なお、天竜川の清流に棲む水生昆虫「ざざむし」は南信・伊那谷ならではの珍味で、松本のものではありませんが、いずれも「海が無いがゆえの食の知恵」という一本の糸でつながっています。
北アルプスの伏流水が生んだ、安曇野のわさび
松本の隣、安曇野は日本一のわさびの産地です。背後にそびえる北アルプスの雪解け水が、複合扇状地の末端から伏流水となって湧き出し、真夏でも水温が15度を超えない清流をつくります。この水こそがわさび栽培の生命線でした。安曇野のわさび栽培は明治期、山中に自生していた株を移植したことに始まり、大正期に本格的に広がったと伝わります。一帯の湧水群は環境省の名水百選にも選ばれており、海なし県の不利を、山がもたらす清冽な水という恵みで覆した好例といえます。
長い冬を越すための保存食
雪に閉ざされる冬は、保存食の知恵を磨きました。松本市安曇地区に伝わる伝統野菜「稲核菜(いねこきな)」は、野沢菜・羽広菜とともに信州の三大漬菜に数えられる漬け菜で、霜に当たるほど甘みを増すのが身上です。赤かぶの漬物もまた、雪深い山里で冬を越すための常備菜として各家庭に受け継がれてきました。
寒さそのものを道具にした保存食もあります。隣接する諏訪地方(茅野市周辺)では、冬の厳しい冷え込みと少雪・高い日照を生かし、海藻を原料とする「天然角寒天」が江戸後期から作られ、今も全国の角寒天のほとんどが諏訪産です。海の恵みである寒天を、内陸の寒冷地でこそ生み出せたという事実は、信州の食の逆説をよく表しています。
戦後に広まった中信のソウルフード — 山賊焼き
比較的新しい郷土食もあります。鶏の一枚肉をにんにくの効いたタレに漬け、片栗粉をまぶして豪快に揚げる「山賊焼き」です。塩尻発祥とする説が知られ、家畜商だった人物が、卵を産まなくなった鶏を譲り受けて料理したのが始まりと伝わります。やがてこれを専門に扱う店が「山賊」と名乗り、評判が松本や安曇へと広がりました。名前の由来には、山賊は物を「取り上げる」から鶏を「揚げる」料理を指したという言葉遊びや、豪快な見た目を山賊になぞらえたなど諸説あります。大切なのは、これが長野市など北信の料理ではなく、塩尻・松本を核とする中信の名物だということ。中信を訪れたら、ぜひ本場の一枚を味わってみてください。
桔梗ヶ原が世界に示した、信州ワイン
最後に、近代の中信が育てたもう一つの食文化を。塩尻の桔梗ヶ原(ききょうがはら)は、いまや日本を代表するワインの銘醸地です。明治二十三年(1890年)に始まったぶどう栽培が、昭和に入ってメルローという黒ぶどうと出会い、1989年には国際コンクールで最高賞を受けて、世界に「KIKYOGAHARA」の名を知らしめました。水はけのよい扇状地と、昼夜の寒暖差が大きい高冷地の気候。そばや漬物を育てたのと同じ風土が、芳醇なワインをも生んだのです。
不利を恵みに変えてきた食の土地
海が無いこと、米が穫れにくいこと、冬が長いこと。松本・中信の食文化は、これらの不利と正面から向き合い、塩の道で外と結び、山と水から糧を引き出し、寒さを保存の味方に変えてきた歴史の集積です。そばの一杯、わさびの一筋、山賊焼きの一枚。その背後にある「なぜ」を知れば、松本で味わう食は、いっそう深い物語を帯びるはずです。
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