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開港が育てた港町の味——神戸の食文化、その成り立ちをたどる
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開港が育てた港町の味——神戸の食文化、その成り立ちをたどる

港がひらいた食卓——1868年から始まる物語

神戸の食文化を語るとき、すべての出発点になるのが1868年(明治元年)の開港です。六甲山地が海際まで迫り、すぐ沖が深い天然の良港だった神戸には、開港と同時に外国人居留地(現在の中央区、三宮から元町にかけての海側一帯)が設けられ、欧米の商人や外交官、職人、そして彼らに雇われた中国人らが暮らし始めました。鎖国から一気に世界へ開かれたこの港町で、人々は西洋の料理・パン・菓子・酒に日々接することになります。山が背後に迫って平地が狭く、人と文化が海岸沿いの細い帯に凝縮したことも、異国の味が短期間で根づいた一因でした。神戸の食は「名物を売り出した」のではなく、港に集まった人々の暮らしそのものから自然に育った——そこが他の都市と決定的に違うところです。

居留地が遺した「洋食」とパンの街

開港の翌1869年には、早くも旧居留地内にイギリス人・フランス人が営むパン屋が開いたと伝えられ、これが神戸のパン史の始まりとされます。1870年(明治3年)には居留地79番地にオリエンタルホテルが開業。のちにこのホテルを率いたフランス人ルイ・ベギューは、築地ホテル館や横浜グランドホテルの料理長を歴任した実力者で、「日本フランス料理の父」とも称されます。彼のもとで腕を磨いた日本人コックたちが各地へ散り、西洋料理を日本人の口に合わせた「洋食」が広まっていきました。

なかでもパン文化はとりわけ深く根を張りました。第一次世界大戦で捕虜として来日したドイツ人ハインリヒ・フロインドリーブは、解放後の1924年に神戸でパン屋を開きます(NHK連続テレビ小説『風見鶏』のモデルとして知られます)。本格的なドイツパンの技が、こうして港町に持ち込まれたのです。神戸はいまも家計調査でパンへの支出額が全国トップクラスを争う「パンの街」で、2023年には1世帯あたり年間およそ4万1000円で全国一位に返り咲きました。パンの消費は西高東低といわれますが、その先頭を走るのが、いち早く西洋の食を受け入れた神戸なのです。

大正に花ひらいた洋菓子

「神戸=スイーツの街」というイメージも、歴史をたどると戦争と亡命の物語に行き着きます。開港から半世紀後の大正期、神戸には名だたる洋菓子店が相次いで生まれました。バウムクーヘンで知られるユーハイムの創業者カール・ユーハイムは、ドイツ租借地・青島(チンタオ)で菓子店を営むうちに第一次大戦で捕虜となって来日し、関東大震災を機に神戸へ移り住みました。チョコレートのモロゾフやゴンチャロフを興したのは、ロシア革命の混乱を逃れて神戸にたどり着いた白系ロシア人たちです。戦乱に追われた異国の職人たちが、たまたまこの港町に根を下ろし、本場の技を伝えた——神戸の洋菓子は、開かれた港ならではの偶然と受容が生んだ文化といえます。

居留地の西で育った中華——南京町

開港は、中国からの移住者も呼び寄せました。当時の清国は日本と正式な条約を結んでおらず、中国人は居留地の内側に住むことができませんでした。そこで彼らは居留地のすぐ西側、いまの元町に近い一帯に集まり、雑貨商や豚肉商、料理店を営みます。これが横浜・長崎と並ぶ日本三大中華街のひとつ、南京町(なんきんまち)の始まりです。狭い区画に中国の食材と料理が凝縮し、点心や中華まんといった味が神戸の日常に溶け込んでいきました。1945年の神戸大空襲で町は壊滅的な被害を受けますが、戦後に再興し、いまも華僑の人々が受け継ぐ食文化の核として息づいています。

六甲おろしと宮水——灘五郷の酒

神戸の食文化は、洋の味ばかりではありません。市東部の灘区・東灘区から西宮市にかけての沿岸には、日本一の酒どころ・灘五郷(今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷)が広がり、全国の清酒のおよそ4分の1を生み出してきました。これもまた、神戸の地理が育てた文化です。冬、六甲山から吹き下ろす冷たく乾いた「六甲おろし」は、雑菌の繁殖を抑えて低温でじっくり醸す「寒造り」に最適でした。さらに1840年頃、西宮で湧く「宮水(みやみず)」が酒造りに格別に向くことが発見されます。カリウムやカルシウムなどミネラルに富み、酒を濁らせる鉄分をほとんど含まない硬水は、酵母の働きを助けて発酵を進め、引き締まった辛口の酒を生みました。京都・伏見の「女酒」に対し、灘の酒が「男酒」と呼ばれるのはこのためです。北の丹波からやってきた丹波杜氏の技と、港から樽廻船で江戸へ送られた「下り酒」の評判が、灘を全国屈指の名醸地へと押し上げました。

「神戸牛」という名の旅

世界に轟く「神戸ビーフ」も、その出自をたどると意外な事実に行き当たります。神戸牛のもとになるのは、兵庫県北部の但馬(たじま)地方で1000年以上にわたり育てられてきた但馬牛(たじまうし)です。つまり牛そのものは神戸で生まれ育つわけではなく、但馬の山あいの集落で大切に守られてきた血統が源流なのです。実際、いまの黒毛和牛のほとんどは但馬の名牛「田尻号(たじりごう)」の子孫だといわれます。では、なぜ「神戸」の名がついたのか。開港後、居留地に暮らす外国人がこの但馬牛の肉を口にして「うまい」と評判になり、神戸の港を通じて世に広まったことに由来するとされます。厳しい基準を満たした最上級の但馬牛だけが「神戸ビーフ」を名乗れる——味は但馬の山が育て、名前は港町・神戸を旅した。帰属を正確に知ると、一枚のステーキの背景が立体的に見えてきます。

山と海と下町と——長田のそばめし

港の華やかな洋の文化の一方で、神戸には汗の匂いのする下町の食文化もあります。その代表格が、市西部の長田区で生まれたそばめし。ケミカルシューズ(化学素材を使った靴)づくりで栄えた長田では、昭和30年頃、工場で働く人々が持参した冷や飯を鉄板焼きの店で温めてもらい、注文した焼きそばと一緒に細かく刻んで混ぜたのが始まりと伝えられます(時期や経緯には諸説あります)。手早く腹を満たせるこの一品は、働く町のソウルフードとして定着しました。牛すじとこんにゃくを甘辛く炊いた「ぼっかけ(すじこん)」を合わせるのも長田流です。さまざまな出自の人々が肩を寄せ合って働いた長田の歴史が、この素朴で力強い味の背景には刻まれています。洋食や洋菓子の華やかさだけが神戸ではない——下町の鉄板から生まれた一皿にも、この街の食文化は確かに宿っています。

ジャズの流れる港町で

最後にもうひとつ、神戸の食卓に欠かせない「音」の話を。神戸は、日本のジャズ発祥の地とされる町です。大正期、外国航路の船で運ばれてきた西洋音楽を土壌に、1923年には日本初のプロ・ジャズバンドが神戸を拠点に生まれたと伝えられます。やがてレコードでジャズを聴かせる「ジャズ喫茶」という日本独自の文化が花開き、一杯のコーヒーと音楽が港町の夜を彩りました。洋食、パン、洋菓子、中華、灘の酒、但馬の牛、下町のそばめし、そしてジャズ。海の向こうから来たものと、この土地の山と海が育てたものとが、分け隔てなく同じ食卓に並ぶ——その雑多な豊かさこそが、開港から150年あまりをかけて神戸が築いてきた「食の街」の正体なのだと思います。

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Written by

松本 海斗

スポーツインストラクター

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