メインコンテンツへスキップ
SOROU.JP日本全国情報ポータルサイト
横浜の食文化はどう生まれたか — 開港が育てた中華街・牛鍋・洋食の街
学び
6分で読める

横浜の食文化はどう生まれたか — 開港が育てた中華街・牛鍋・洋食の街

開港の港が育てた「食の街」横浜

1859年(安政6年)7月1日、横浜は開港しました。それまで砂州と田畑が広がるだけだった入海の村に外国人居留地が設けられ、関内には西洋の商館が、山手の丘には外国人の住まいが並びます。世界各地から人と物が行き交う国際港へと一変したこの街には、それまでの日本にはなかった食材や調理法、食習慣が次々と上陸しました。牛肉やパン、乳製品、ビール、洋菓子——いま私たちが当たり前に口にするものの多くが、この港を入口に日本へ広まっていきます。横浜の食文化が「発祥」「日本初」という言葉と切り離せないのは、開港というこの出来事が出発点だからです。中華・西洋・和の食が一つの港で出会い、混じり合いながら根づいていった——それが横浜の食文化の成り立ちです。

華僑が築いた中華街

開港とともに横浜へやってきたのが、広東や上海を出身とする中国の人々でした。香港や広東の西洋商館で働いた経験を持つ彼らは、西洋の言葉を話し、日本人とは漢字で筆談ができたため、生糸や茶の取引で外国商人と日本商人をつなぐ仲買・通訳の役を担います。居留地の一角に住まいと商いの場が集まり、やがて「唐人町」「南京町」と呼ばれる一帯が形づくられました。これが現在の横浜中華街の原型です。1862年(文久2年)には街を見守る関帝廟の小さな祠が開かれ、商売繁盛と同郷の絆を支える心のよりどころとなりました。広東料理を軸とする本格的な中国の味は、こうして日本の食卓に根を下ろしていきます。関東大震災や戦災で幾度も焼けながら、そのたびに再建されてきた中華街は、いまも神戸・長崎と並ぶ日本三大中華街のひとつとして、横浜の食を象徴する街であり続けています。

文明開化の象徴・牛鍋

開港は食のタブーも揺るがしました。仏教の影響で長く肉食を避けてきた日本に、西洋人がもたらした牛肉食の習慣が伝わります。居留地の外国人向けに牛肉の需要が生まれ、横浜には食肉を扱う商いも育ちました。福澤諭吉らが「滋養に良い」と肉食を勧めると、横浜と東京には牛鍋屋が一気に増えていきます。横浜は牛鍋が花開いた街のひとつとされ、明治元年(1868年)創業と伝わる太田なわのれんは、味噌だれと葱で牛肉の臭みをやわらげ、浅い鉄鍋で煮るという、のちのすき焼きにつながる和洋折衷の食べ方を編み出したと言われます。ちゃぶ台にのぼる一切れの牛肉は、まさに「文明開化を口にする」体験そのものでした。

元町のパンとホテルが生んだ洋食

西洋人の暮らしは、日本人の主食の幅も広げました。元町界隈はパン文化発祥の地とされ、イギリス人が開いたベーカリーの系譜を継ぐ宇千喜商店(現在のウチキパン、明治21年創業)が、イギリス風の山型食パンを今に伝えています。洋食の歴史で欠かせないのが、1927年(昭和2年)に山下公園前で開業したホテルニューグランドです。初代総料理長として招かれたスイス人サリー・ワイルは、体調を崩した宿泊客のために、バターライスに海老のクリーム煮を重ねてチーズで焼いた一皿を即興でこしらえました。これが「ドリア」の始まりと伝えられています。戦後、進駐軍に接収された同ホテルでは、2代目総料理長・入江茂忠が、米兵が食べていたケチャップ和えのスパゲッティを正統な一皿へと磨き上げ、「スパゲッティナポリタン」が生まれました。プリンアラモードもこのホテル発祥とされ、ワイルのもとから多くの料理人が巣立っていったことから、横浜は日本の洋食を育てた母なる街と呼ばれます。

馬車道の「あいすくりん」と山手のビール

横浜は「日本初」の宝庫でもあります。乗合馬車が行き交い、1872年(明治5年)に日本で初めてガス灯がともった馬車道では、明治2年(1869年)に町田房蔵が、牛乳と卵黄、砂糖でこしらえた冷たい菓子「あいすくりん」を売り出しました。これが日本人の手による最初のアイスクリームとされ、当時は金二分、大工の日当ほどもする高級品だったと伝わります。翌年に開かれた祭礼での茶店販売をきっかけに評判が広まり、通りには今も発祥を記す碑が立っています。山手では1870年(明治3年)、ノルウェー生まれのアメリカ人ウィリアム・コープランドが、湧き水に恵まれた土地にスプリングバレー・ブルワリーを開きました。日本で初めて産業として根づいたビール醸造とされ、この事業はのちにジャパン・ブルワリーを経てキリンビールへと受け継がれます。山手のキリン園公園には、その源流を伝える碑が残されています。

中華の点心が生んだ駅弁・シウマイ

港に集まった多彩な味は、やがて庶民の暮らしへと広がっていきます。その象徴が崎陽軒のシウマイです。1908年(明治41年)に横浜駅で創業した崎陽軒は、「横浜にも名物を」と、南京町の突き出しに出されていた点心に着目しました。栃木出身の初代社長が点心の職人を招き、冷めても美味しいよう一晩戻した干し帆立貝柱を使う独自のシウマイを、1928年(昭和3年)に売り出します。やがて折詰の弁当として駅で売られるようになり、中華街で育まれた味は、旅の道連れという親しみやすい形で全国の食卓へ届けられました。横浜の中華が高級店の料理にとどまらず、暮らしの中の名物として根づいた一例です。

港町が育てた「折り重なる」食文化

中華に洋食、牛鍋、パン、菓子、ビール——横浜の食文化は、誰か一人が築いたものではありません。海に開かれた港という地理、居留地に集まった華僑や西洋人、そして異国の味をおそれず受け入れた人々の営みが、百六十年あまりの歳月をかけて幾重にも折り重なって生まれたものです。関東大震災や戦災で街は幾度も焼けましたが、そのたびに人々は味を再建し、受け継いできました。だからこそ横浜の食は、一皿ごとに開港以来の街の歴史を、静かに物語っているのです。

シェアする

Written by

高橋 大地

アグリツーリズム推進者

Related Columns

日本刀×日本文化体験

観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。