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「和華蘭」が一皿に宿る街——長崎の食文化はなぜ生まれたか
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「和華蘭」が一皿に宿る街——長崎の食文化はなぜ生まれたか

「和華蘭(わからん)」——三つの食文化が溶け合う街

長崎の食を語るとき、地元の人がよく口にするのが「和華蘭(わからん)」という言葉です。和(日本)・華(中国)・蘭(オランダ=西洋)の三文化が、ぶつかり合うのではなく一枚の皿の上で溶け合っている——それが長崎の食卓のいちばんの個性です。ちゃんぽんの一杯にも、円卓を囲む卓袱(しっぽく)料理にも、しっとり甘いカステラにも、この三層が重なって流れ込んでいます。

なぜ長崎にだけ、こうした食文化が根づいたのか。答えは料理そのものよりも、この街が背負ってきた地理と歴史のなかにあります。その背後にある物語ごと味わう旅の視点で、長崎の食の成り立ちをたどってみましょう。

出島と唐人屋敷——食文化が流れ込んだ二つの窓口

江戸時代、日本は鎖国のもとで対外交易の窓口を厳しく絞り込みました。そのなかで長崎は、幕府が直接管理する「四つの口」のひとつとして、西洋と中国に開かれた唯一の港町であり続けます。その象徴が、扇形の人工島・出島です。

出島は当初ポルトガル人を収容する目的で1634年に築かれましたが、ポルトガル人追放ののち、1641年に平戸のオランダ商館が移されました。以後、幕末の開国に至るまで、出島はオランダとの交易を一手に担う窓口になります。西洋の食材・調理法・砂糖といった「蘭」の要素は、この狭い島を通して日本へ入ってきました。

もう一つの窓口が、中国人の居住区として整備された唐人屋敷です。密貿易を防ぐため、幕府は1689年に長崎に住む中国商人を一カ所へ集めました。その広さは出島のおよそ二倍。オランダ人より比較的自由に町の人々と行き来できたこともあって、長崎には中国文化が色濃く根づきました。「華」の食文化も、この唐人屋敷を核とする華僑(かきょう)のコミュニティから街へ広がっていったのです。性格の違う二つの窓口が同じ街に同居したからこそ、長崎の食卓には「華」と「蘭」が並んで根を下ろしました。

中華が長崎で生まれ変わった——ちゃんぽんと皿うどん

長崎を代表する一杯・ちゃんぽんは、まさにこの華僑コミュニティから生まれました。1899年(明治32年)創業の中華料理店・四海樓(しかいろう)の初代・陳平順(ちんへいじゅん)が考案したとされる料理です。福建省から長崎へ渡った陳平順は、経済的に苦しい在留中国人留学生に、安くて栄養のある食事を出そうと考えました。

そこで故郷・福建の麺料理「湯肉絲麺(とんにいしいめん)」を下敷きに、長崎で手に入る魚介や野菜をたっぷり加えて生まれたのが、ちゃんぽんの原型「支那饂飩(しなうどん)」だったといわれます。中国生まれの料理が長崎の海の幸を吸い込んで土地の味へと変わった、「華」の日本化のわかりやすい一例です。

皿うどんもまた、同じ四海樓で生まれたちゃんぽんの派生だとされます。麺を炒め、少なめのスープを含ませて平皿に盛ることからその名がつきました。パリパリの細麺にとろみ餡をかけるタイプと、ちゃんぽん麺に近い太麺のタイプがあり、いまや家庭の食卓にも欠かせない長崎の味です。

円卓を囲む「卓袱料理」——和華蘭の集大成

長崎の食文化が「和華蘭」と呼ばれる所以を、もっとも端的に示すのが卓袱(しっぽく)料理です。「卓」はテーブル、「袱」はそれを覆う布を意味し、円卓に大皿を並べ、身分の上下なく取り分けて食べる中国式の宴会様式がもとになっています。

その起源は江戸時代の初め、長崎に暮らす中国人が故郷の料理を囲んで親睦を深めたり、日本の役人をもてなしたりした席にあるとされます。やがて元禄のころにかけて、和食・中国料理・南蛮料理の要素が混ざり合い、長崎独自の宴会料理として形を整えていきました。

卓袱料理は、女将(おかみ)が「お鰭(ひれ)をどうぞ」と声をかけ、一人に一尾分の鯛を使ったすまし汁から始まる、という独特の作法を持ちます。膳の途中には、豚の角煮にあたる東坡煮(とうばに)が並びます。これは中国・浙江省の「東坡肉(トンポーロー)」に由来する、長崎らしい一品です。さらに、ポルトガル語で「細かく刻んだ」を意味する「picado」が語源とされるヒカド——魚や鶏、根菜を角切りにして煮込み、すりおろしたさつまいもでとろみをつけた料理も登場します。

一つの円卓に、和食のすまし汁、中国由来の角煮、南蛮由来の煮込みが同居する。卓袱料理は、長崎の食卓そのものを縮図にした「和華蘭の集大成」なのです。

南蛮が残した甘い遺産——カステラとシュガーロード

「蘭」、すなわち西洋がもたらした最大の遺産は、砂糖と菓子の文化でしょう。長崎の代名詞ともいえるカステラは、16世紀の南蛮貿易でポルトガルから伝わった南蛮菓子が原型です。その名は、イベリア半島の「カスティーリャ地方のパン」に由来するとされ、ポルトガルの「パン・デ・ロー」という焼き菓子がルーツだと考えられています。

ただし、いま私たちが知るしっとりと甘い長崎カステラは、伝来した姿そのままではありません。江戸時代に長崎へ大量の砂糖が入るようになると、地元の菓子職人たちが卵や砂糖、水飴の配合を工夫し、ふんわりしながらもしっとりした独自の菓子へと作り変えていきました。「蘭」のレシピを「和」の職人が磨き上げた——これもまた長崎らしい日本化の物語です。

この甘い文化を支えたのが、長崎と小倉を結ぶ街道「長崎街道」、通称シュガーロードです。出島に陸揚げされた砂糖は、この街道を通って各地へ運ばれ、沿道に菓子づくりの文化を芽吹かせました。2020年(令和2年)には「砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜」として日本遺産にも認定されています。長崎の菓子の甘さの背後には、こうした一本の「砂糖の道」が横たわっているのです。

縁起をかつぐ「桃カステラ」、庶民に降りてきた「ハトシ」

砂糖文化と中国文化が出会って生まれた、長崎ならではの縁起菓子が桃カステラです。桃は中国で古くから不老長寿を象徴する果実とされ、その意匠を好む感性は中国文化の影響が濃い長崎にも受け継がれました。カステラ生地を桃の形に焼き、「すり蜜」と呼ばれる砂糖のペーストを二度がけして、葉や茎を練り切りで表す——明治・大正のころから、雛祭りや婚礼、出産祝いなどの晴れの日に贈られる菓子として親しまれてきました。南蛮のカステラと中国の桃が一つになった、まさに和華蘭の菓子です。

一方、もとは卓袱料理の一品でありながら、いまでは街なかで気軽に買える庶民の味になったのがハトシです。食パンにエビのすり身を挟んで揚げた料理で、「蝦多士」と書きます。広東語で「蝦(エビのすり身)」に「多士/土司(トースト)」を合わせた名で、明治期に清国から長崎へ伝わったとされます。ハレの宴の一皿が日常のおやつや酒の肴へと降りてきた——食文化が市民のあいだに溶け込む過程が、ハトシ一つによく表れています。

謎多き洋食「トルコライス」——戦後の長崎が生んだ一皿

長崎の「和華蘭」は、江戸や明治で止まったわけではありません。戦後の昭和に生まれたトルコライスは、その精神が現代まで続いていることを示す一皿です。とんかつ・ピラフ・スパゲティを一枚の皿に盛り合わせた、洋食の盛り合わせのような料理で、1950〜60年代ごろの長崎で広まったとされます。

おもしろいのは、「トルコ」と名がつくのに、トルコ料理に同じものは存在しないという点です。ピラフがもともとトルコ系の料理だからという説、三色(トリコロール)がなまったという説、東西の食を一皿につなぐ「架け橋」になぞらえたという説など由来には諸説あり、決め手となる記録は残っていません。名前の謎までふくめて、異文化を貪欲に取り込んで自分の味にしてしまう長崎らしさが、この戦後の一皿にも息づいています。

食文化を「歴史ごと味わう」長崎

ちゃんぽんの湯気の向こうには唐人屋敷の華僑たちがいて、カステラの甘さの先には出島とシュガーロードがあり、卓袱の円卓には和・華・蘭の四百年が重なっています。長崎の食は、単なる「ご当地グルメ」ではなく、この街が世界とどう向き合ってきたかの記録そのものです。

名物を口にするときは、それがどこから来てどう日本化したのかを少しだけ思い浮かべてみてください。一皿の背後に出島の波音や砂糖の道が見えてくると、同じちゃんぽんでも味わいの奥行きが変わってくるはずです。

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Written by

中村 陽子

クラフトジャーナリスト

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