江戸の風情と現代の東京が交差する墨田区向島に、ひっそりと佇む庭園がある。向島百花園は、喧騒とは無縁の静謐な空間で、訪れる人々に日本古来の草花と文人の美意識を伝え続けている。特に正月の風物詩「春の七草籠」は、この庭園ならではの雅な展示として、毎年多くの人々を魅了する。
江戸の文人が育てた「花の公園」の歴史
向島百花園の歴史は、文化2年(1805年)にさかのぼる。創設したのは、骨董商を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)という人物だ。彼は隅田川沿いの向島の地に土地を取得し、江戸の文人墨客や俳人・歌人たちと交流しながら、草花を植え庭園を整備していった。
「百花園」という名称は、梅花だけを愛でる庭園が多かった当時、あえて梅以外も含む多様な花を集めた庭の方針から名付けられたともいわれる。柳沢淇園、亀田鵬斎、大田南畝など、当時を代表する江戸の文化人たちが足を運び、園内各所に詩碑や石碑を残した。現在も園内には29基の詩碑・句碑が点在しており、当時の文化的な賑わいを今に伝えている。
明治以降も市民に愛され続けた百花園は、昭和36年(1961年)に東京都立の文化財庭園として整備・保存されることとなった。現在は都立文化財9庭園のひとつに数えられており、国の名勝にも指定されている。
正月の風物詩「春の七草籠」の見どころ
毎年1月上旬から中旬にかけて行われる「春の七草展示」は、百花園が誇る冬の風物詩である。セリ、ナズナ、ゴギョウ(ハハコグサ)、ハコベラ(ハコベ)、ホトケノザ、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)という春の七草を、竹籠や木枠に美しく盛り合わせた展示は、江戸時代から続く正月の慣習を現代に伝えるものだ。
七草粥を食べる習慣は、1月7日の朝に行われる。無病息災を願い、冬の野草の生命力を体に取り込む、この日本古来の行事は現代でも多くの家庭で続けられている。百花園での展示は、その七草を実際に目で見て確認できる貴重な機会でもある。都市に暮らす人々にとって、セリとナズナを見分けることは容易ではないが、丁寧に解説された展示を通じて、日本の植物文化への理解が深まる。
展示は屋外の草地や展示棟で行われるため、冬の澄んだ空気の中で草花の静謐な美しさを体感できる。背景にそびえる東京スカイツリーとの対比が、不思議な奥行きと情緒を生み出すのもこの庭園ならではの景色だ。
梅から萩まで——四季を彩る庭園の草花
百花園の魅力は、正月の七草展示にとどまらない。その名のとおり、一年を通じてさまざまな草花が次々と咲き継いでいく。
早春には梅の香りが園内に漂い始める。白梅・紅梅あわせて約360本が植えられており、2月上旬から3月にかけて「梅まつり」が開催される。花びらが散り始めると、落ちた花びらが苔の上に積もり、それ自体が一幅の絵のような美しさをたたえる。
春が深まると、スミレやシャガ、ヤマブキが彩りを添え、初夏にはハナショウブやキキョウが紫と白の対比を演じる。夏には萩が青々と茂り、秋のための準備を静かに進める。
そして秋の百花園といえば、萩のトンネルが圧巻だ。8月下旬から9月にかけて、ススキの原と組み合わさった萩の景色は、古来の和歌にも詠まれた秋の情趣そのものである。「萩まつり」の期間中は夜間に行灯が灯され、幻想的な雰囲気の中で秋の七草を愛でることができる。
コスモス、リンドウ、フジバカマと続く秋の草花が終わると、また冬の七草展示へと巡っていく。この季節の輪廻こそが百花園の本質であり、訪れるたびに異なる表情を見せてくれる。
侘び寂びの空間設計——庭園の構造と美意識
向島百花園は、約1万3千平方メートルという比較的こぢんまりとした敷地の中に、江戸の美意識が凝縮されている。池泉回遊式の庭園ではなく、野草を中心とした「花の庭」としての設計が特徴的で、観賞用の草花を主役にすえた構成は全国的にも珍しい。
園内には亭や茶屋が点在し、縁側に腰をおろして草花を眺める時間がゆったりと流れる。東京のど真ん中にありながら、喧騒を忘れさせる静けさがある。
特に注目したいのが、29基にのぼる詩碑・石碑の存在だ。柳沢淇園の書「百花園」の扁額をはじめ、亀田鵬斎、大田南畝、建部凌岱など、江戸後期を代表する文化人の言葉が刻まれている。石碑を巡りながら庭を歩くと、単なる植物鑑賞を超えた、江戸文化の散歩道となる。
また、園内の北側からはスカイツリーが借景として聳え立つ。高さ634メートルの現代の塔と、200年以上の歴史を持つ江戸庭園の組み合わせは、古い東京と新しい東京が溶け合うシンボリックな光景として、多くの写真家や旅行者を引きつけている。
アクセスと周辺の観光スポット
向島百花園へのアクセスは、東武スカイツリーライン「東向島駅」から徒歩約5分、もしくは「曳舟駅」から徒歩約8分が便利だ。入園料は一般150円と非常に手頃で、65歳以上や小学生以下は無料。年中無休で開園しており、開園時間は9時から17時(入園は16時30分まで)となっている。
周辺には、隅田川沿いの隅田公園や長命寺の「桜もち」で有名な老舗和菓子店「長命寺桜もち」、牛嶋神社などが点在する。向島エリアはかつて江戸随一の花街として栄えた場所でもあり、古い料亭や町並みの痕跡を今もたどることができる。
百花園から隅田川まで歩けば、スカイツリーを背景にした川辺の眺めが広がる。近くの言問橋や桜橋を渡り、浅草まで散策するルートは、下町の歴史と文化を全身で感じられる贅沢なコースだ。
正月の七草展示を目当てに訪れる場合は、例年1月6日前後から展示が始まることが多いため、事前に東京都公園協会の公式情報を確認するとよい。冬の庭園は人も少なく、静かにじっくりと草花と向き合える贅沢な時間を与えてくれる。江戸から続く文人の美意識を、澄み渡った冬空の下でゆったりと感じてほしい。
アクセス
東武スカイツリーライン東向島駅から徒歩8分
営業時間
9:00〜17:00
料金目安
150円(入園料)