東京東端、葛飾区の片隅に、時間の流れがゆっくりと感じられる街がある。柴又——映画の中で何度も描かれた下町の原風景が、今もそのままに息づく場所だ。帝釈天の荘厳な堂宇と、江戸川をゆく小さな渡し船が、訪れる人を日常の喧騒から遠ざけてくれる。
寅さんが愛した下町の聖地
「男はつらいよ」シリーズをご存じだろうか。渥美清演じるフーテンの寅さんが故郷に帰るたび、必ず映し出されるのが柴又の街並みだ。1969年から1995年にかけて全48作が作られたこの国民的映画は、柴又を日本中に知らしめた。
京成金町線の柴又駅を降りると、まず目に飛び込んでくるのが寅さんの銅像。ぽつりと旅立つ後ろ姿と、彼を見送るさくらの銅像が向かい合って佇む。改札を出た瞬間から、すでに映画の世界に引き込まれる感覚がある。
参道は駅から帝釈天まで約200メートル。両側に草だんごやせんべい、川魚料理の老舗が軒を連ね、平日でも観光客や地元の人たちでにぎわっている。石畳の参道を歩けば、昭和の商店街の空気感がそのまま残っており、懐かしさと新鮮さが同時に押し寄せてくる。
帝釈堂を彩る圧巻の彫刻ギャラリー
正式名称を経栄山題経寺という柴又帝釈天は、日蓮宗の寺院だ。江戸時代初期の1629年に創建され、厄除けや縁結びの霊場として江戸の人々に親しまれてきた。
この寺の最大の見どころが、帝釈堂胴羽目彫刻ギャラリーである。拝観料を払って堂内に入ると、廊下の両側にずらりと並ぶ木彫パネルに圧倒される。法華経の十の説話を題材とした全10面の彫刻は、1922年(大正11年)から1934年(昭和9年)にかけて、10人の名工が分担して彫り上げた。
彫刻の精緻さは息を呑むほどで、木の中から人物が浮き上がるような立体感、衣のたなびき、波の表現——どれをとっても江戸木彫りの技術の極致を示している。ひとつひとつのパネルの前に立ち止まり、細部をじっくりと眺めていると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
彫刻ギャラリーのほか、庭園「邃渓園(すいけいえん)」も忘れずに訪れたい。池を中心に配された回遊式庭園で、書院造りの建物とあいまって、静謐な時間を過ごせる。春の桜、夏の緑、秋の紅葉と、季節ごとに表情を変えるこの庭は、帝釈天のもうひとつの顔だ。
都内唯一の渡し船「矢切の渡し」
帝釈天から徒歩10分ほど歩き、江戸川の土手に出ると、川面を小さな木造船がゆっくりと渡っていく光景に出会える。これが「矢切の渡し」だ。東京都内に残る唯一の渡し船として、国の選定を受けた歴史的な交通手段である。
江戸時代、この渡しは農民が農地と住居を行き来するための生活路だった。現在は東京都葛飾区の柴又と、千葉県松戸市の矢切を結び、片道約5分の船旅を楽しめる。料金は大人200円と手頃で、川風を感じながら水面を渡る体験は、日常ではなかなか味わえないものだ。
渡しが有名になったきっかけのひとつが、1982年(昭和57年)に細川たかしが歌った演歌「矢切の渡し」のヒット。哀愁漂うメロディーと「つれて逃げてよ」の歌詞が、この渡しを全国区にした。対岸の松戸市矢切側に渡れば、野菊の自生地として知られる「野菊の墓」文学碑周辺を散策することもできる。
渡し船は基本的に春から秋の期間に運行しており、冬季は休止になることが多い。また、雨天や強風時は運休となる場合があるため、訪問前に運行状況を確認しておくと安心だ。
参道グルメと周辺散策
柴又を訪れたなら、参道グルメは外せない。中でも草だんごは、よもぎを練り込んだ緑色のだんごに、甘さ控えめのこしあんをたっぷりとからめた名物で、複数の老舗が独自の味を守り続けている。食べ比べをしてみるのも楽しい。
焼きたてのせんべいも参道の名物だ。炭火で一枚一枚丁寧に焼き上げる醤油せんべいの香ばしい匂いが参道に漂い、食欲をそそる。お土産にもなるため、手土産選びに迷ったときも重宝する。
帝釈天の参道を抜けてすぐ右手には、「山本亭」がある。大正末期から昭和初期に建てられた和洋折衷の建物で、書院造りの座敷と洋風の客間が融合した珍しい建築だ。併設の庭園は「庭園都市東京」の名園のひとつに数えられ、縁側でお茶をいただきながらゆったりとした時間を過ごせる。拝観料は安く、穴場的な癒しスポットとして地元の人々にも愛されている。
季節ごとの楽しみ方とアクセス
柴又は春から初夏にかけての訪問が特におすすめだ。4月には帝釈天や江戸川沿いの桜が満開となり、花見客でにぎわう。5月以降は緑が深まり、矢切の渡しも本格的な運行シーズンを迎える。川風が心地よく、船旅がより爽快に楽しめる時期だ。
夏は地元の下町祭りが各所で開かれ、活気ある雰囲気を体験できる。秋は邃渓園の紅葉が見事で、静かに訪れるには最適なシーズン。冬は人が少なく、参道を独り占めしながらゆっくりと散策できる。
アクセスは、京成金町線「柴又駅」下車で徒歩すぐ。JR常磐線・京成本線「金町駅」または「高砂駅」で京成金町線に乗り換える形が一般的だ。都心からは北千住乗り換えで30〜40分程度。車の場合は近隣のコインパーキングを利用することになるが、休日は混雑することがあるため、公共交通機関の利用が便利だ。
柴又は、華やかさよりも「ほっとする懐かしさ」を求める旅にぴったりの場所だ。寅さんが駆け抜けた参道を歩き、彫刻に宿る職人の魂に触れ、川の上で風を受けてみてほしい。東京の中に残された、もうひとつの時間が、きっとあなたを待っている。
アクセス
京成金町線柴又駅から徒歩3分
営業時間
9:00〜16:00(帝釈天)
料金目安
400円(彫刻ギャラリー)