東京の喧騒から少し外れたところに、レトロな車両がゆっくりと街を走る路線がある。都電荒川線、通称「東京さくらトラム」。この路面電車に揺られる一日は、現代の東京では忘れかけていた時間の流れを取り戻す、特別な旅になる。
東京唯一の路面電車が歩んできた歴史
都電荒川線の歴史は、明治時代の末にまでさかのぼる。東京市電として発展した路面電車は、最盛期には都内の主要な交通手段として41系統、総延長213kmに及ぶ巨大ネットワークを誇っていた。しかし高度経済成長とともに自動車が急増し、1960年代から廃止が相次いだ。そのなかで唯一残されたのが荒川線だ。沿線住民の強い存続運動が実り、廃止を免れた経緯がある。
三ノ輪橋から早稲田まで約12km、30停留場を結ぶこの路線は、現在も都民の日常の足として現役で走り続けている。レトロな外観の8500形から最新の低床車両9000形まで、さまざまな車両が混在する姿もこの路線ならではの魅力だ。一日乗車券はわずか400円(2024年時点)。この小さな切符一枚が、東京の隠れた名所を巡る長い旅のパスポートになる。
旅の起点・三ノ輪橋の昭和レトロ空間
旅のスタートは三ノ輪橋停留場から。地下鉄日比谷線三ノ輪駅から徒歩数分のこの終点は、それ自体が一つの観光スポットだ。ホームは花壇で彩られ、停留場周辺は昭和の雰囲気をそのまま残す佇まいが広がる。
停留場の脇から伸びるジョイフル三ノ輪商店街は、全長約400mのアーケード商店街。昔ながらの八百屋や総菜屋、老舗の甘味処などが軒を連ね、現役の生活商店街として賑わっている。観光客向けに整備された場所ではなく、地元の人々が実際に買い物をするリアルな下町の空気がここには息づいている。朝の早い時間に訪れると、地元のお年寄りたちが店主と会話しながら買い物をする光景に出会えるかもしれない。
荒川から王子へ、沿線の名所を途中下車で楽しむ
荒川線の醍醐味は、路線全体を乗り通すだけでなく、気になる停留場で途中下車しながら進む旅にある。
荒川遊園地前停留場で降りると、都立荒川自然公園と荒川区立あらかわ遊園が隣接している。あらかわ遊園は昭和27年(1952年)開園の老舗遊園地で、コンパクトながらも観覧車やメリーゴーランドなど定番の乗り物が揃う。家族連れはもちろん、懐かしさを求める大人の来訪者も多い。2022年のリニューアル後も昭和の温かみを残したまま、新たな魅力を加えた施設として人気を集めている。
さらに進んで飛鳥山停留場では、徒歩圏内に飛鳥山公園がある。徳川8代将軍吉宗が享保の改革の一環として整備した、江戸時代から続く由緒ある公園だ。山頂へは無料のモノレール「アスカルゴ」で上ることができる。公園内には北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、紙の博物館という3つのミュージアムも点在しており、歴史や文化に興味がある人なら半日以上過ごせる充実した場所だ。
雑司ヶ谷エリアに近い鬼子母神前停留場で降りると、安産・子育ての神として信仰される鬼子母神(正式名称:威光山法明寺)がある。境内の大イチョウは樹齢700年を超えるとされ、都の天然記念物に指定されている。毎月第1・第3日曜日には「手創り市」と呼ばれる手工芸品の青空市場が開かれ、作家ものの雑貨やアクセサリーを探し求める人々で賑わう。
終点の早稲田は早稲田大学の学生街。都電の旅を締めくくったあとは、古書店が立ち並ぶ本の街の雰囲気を楽しみながら神楽坂方面へと散策を続けるのもいい。
季節ごとに変わる車窓の表情
都電荒川線は、乗る季節によってまったく異なる顔を見せる。
春は何といっても飛鳥山の桜が圧巻だ。公園内に約650本のソメイヨシノが咲き誇り、花見客で賑わう様子を車窓から眺める光景は格別。また沿線各所にはバラが植栽されており、5月中旬から6月にかけては赤・ピンク・白のバラが線路沿いに咲き誇る。この時期を狙って訪れる愛好家も多く、「バラの都電」として写真愛好家にも人気が高い。
夏は緑が濃くなり、荒川の河川敷の青さと相まって清涼感ある車窓が続く。荒川遊園地では夏限定のプールが営業し、子どもたちの歓声が停留場周辺に響く。秋には飛鳥山や雑司ヶ谷霊園のイチョウや紅葉が色づき、黄金色に染まった並木道を低速で走る都電の姿は、多くのカメラマンが訪れる被写体となる。冬は人影が減り、静かな沿線をのんびりと楽しめる穴場の季節。空気が澄んでいれば、車窓から富士山が見えることもある。
一日乗車券で賢く旅するためのヒント
都電荒川線の一日乗車券は車内でも購入できるが、東京都交通局のICカード対応の自動販売機や都営地下鉄の主要駅でも入手可能だ。また東京メトロ・都営地下鉄・バスがセットになった「東京フリーきっぷ」(900円)を利用すれば、都内の移動をさらに効率よく組み合わせることができる。
路線全体を通して乗り続けた場合の所要時間は約50分。のんびり途中下車を繰り返すなら、少なくとも5〜6時間の余裕を持つと快適に回れる。車両は頻繁に運行されており、日中は概ね5〜7分間隔。乗り逃しても次の車両がすぐ来るため、途中下車のハードルが低いのも嬉しい点だ。
混雑は朝夕の通勤時間帯を避ければ快適に座れることが多い。週末の午前中に三ノ輪橋から乗り始め、昼過ぎにかけて少しずつ西へと進んでいくのが、この旅をもっとも楽しむための王道ルートだろう。東京の下町と山の手が交差するこの路線は、どこか懐かしくて新しい、日本の首都の「もう一つの顔」を見せてくれる。
アクセス
都電荒川線三ノ輪橋停留場
営業時間
始発〜終電(一日乗車券400円)
料金目安
400〜2,000円