北海道の南西、日本海の荒波に抱かれるようにして浮かぶ奥尻島。人口二千数百人ほどの小さな離島だが、この島には本土では決して味わえない特別な夜が待っている。地元の漁師とともに漁船に乗り込み、漆黒の日本海でイカを釣る。それが奥尻島のイカ釣り体験だ。江差港からフェリーに揺られること約二時間二十分、まずその船旅そのものが冒険の始まりとなる。水平線に沈む夕日を眺めながら島に渡り、日が暮れるのを待って港へ向かう。夕闇が濃くなる頃、漁師たちが準備を始める姿を見ると、これから始まる非日常への期待で胸が高鳴るのを感じるだろう。
集合は夕方十九時頃。港に着くと、年季の入った漁船と、日焼けした顔に人懐こい笑顔を浮かべる漁師さんたちが迎えてくれる。救命胴衣を身につけ、簡単なレクチャーを受けたらいよいよ出航だ。エンジン音とともに港を離れると、島の灯りがみるみる小さくなっていく。沖合に出ると漁船に取り付けられた集魚灯が一斉に点灯し、海面が鮮やかな緑色に照らし出される。この漁火の光景は奥尻島の夏の風物詩であり、島を遠くから眺めると、海上に宝石を散りばめたような幻想的な光景が広がる。かつては日本海沿岸の各地で見られた漁火も、漁業の衰退とともに減少しており、これほど間近で体験できる場所は貴重になりつつある。
釣り方は伝統的な手釣りが基本だ。テグスの先に擬餌針と呼ばれるイカ用の仕掛けをつけ、海中に沈めていく。漁師さんが手取り足取り教えてくれるので、釣り初心者でも心配はいらない。集魚灯に誘われて海面近くまで上がってきたスルメイカが仕掛けに抱きつくと、手元にズシリとした独特の重みが伝わる。魚の引きとは違う、ぐいぐいと引っ張るようなイカ特有の感触は一度味わうと忘れられない。水面まで引き上げると、イカが墨を吐きながら暴れるので油断は禁物だ。漁師さんたちは「墨をかけられるのも思い出のうちだ」と笑うが、着替えを一枚余分に持っていくことをお勧めする。調子が良ければ一人で十杯以上釣れることもあり、夢中になって時間を忘れてしまう。
この体験の最大の醍醐味は、なんといっても釣りたてのイカをその場で味わえることだろう。漁師さんが手際よくさばいてくれるイカの刺身は、驚くほど透き通っている。口に入れた瞬間、ねっとりとした甘みが広がり、コリコリとした歯ごたえが心地よい。スーパーで買うイカとはまるで別の食べ物だと、誰もが口を揃える。醤油をほんの少し垂らすだけで、イカ本来の旨味が何倍にも引き立つ。船上で食べるからこその特別な味わいに加え、頭上には満天の星空が広がる。奥尻島は光害が極めて少なく、天の川がはっきりと肉眼で確認できるほどの星空が楽しめる。漁火に照らされた海と、降り注ぐような星々に囲まれながら食べるイカ刺しは、まさに贅沢の極みだ。
体験の期間は六月から十月までで、スルメイカの漁期に合わせて実施される。特におすすめなのは七月から八月にかけての盛夏の時期だ。イカの群れが最も濃く、釣果が安定するうえ、海況も比較的穏やかな日が多い。ただし日本海の天候は変わりやすく、波が高い日は出航が中止になることもあるため、滞在日程には余裕を持たせておきたい。料金は五千円から八千円程度で、体験時間や内容によって異なる。事前予約が必須なので、宿泊先や観光協会を通じて早めに申し込むのが確実だ。服装は濡れても構わない動きやすい格好に、防寒着を一枚持参するとよい。夏場でも夜の海上は思いのほか冷え込むことがある。
奥尻島での滞在をより充実させるなら、イカ釣り体験以外の見どころにもぜひ足を延ばしてほしい。島のシンボルである鍋釣岩は、波の浸食によって鍋の取っ手のようなアーチ状になった奇岩で、夕暮れ時のシルエットは絶景だ。また島の北部にある賽の河原公園は、透明度の高い海と荒々しい岩場が織りなす景観が素晴らしい。一九九三年の北海道南西沖地震で大きな被害を受けた島の復興の歴史を伝える奥尻島津波館も、訪れる価値がある。食事は島内の民宿や食堂で新鮮な海の幸を堪能できる。ウニやアワビ、ホッケなど、日本海の恵みをふんだんに使った料理は、どれも絶品だ。特にウニ丼は奥尻島を訪れたなら外せない一品で、甘くとろけるような味わいに感動すること間違いない。
奥尻島へのアクセスは、江差港からのフェリーが主な手段となる。ハートランドフェリーが一日一便から二便運航しており、所要時間は約二時間二十分だ。また夏季には函館空港との間に小型飛行機の便が就航することもあり、わずか三十分ほどで到着できる。島内の移動はレンタカーが便利だが、台数が限られるため事前予約が望ましい。路線バスも運行しているが本数は少ないので、計画的に動くことが大切だ。宿泊は民宿やホテルが数軒あり、漁師さんが営む民宿では、まるで親戚の家に泊まりに来たかのような温かいもてなしを受けられる。
離島という不便さはある。フェリーの本数は限られ、天候次第では欠航もある。コンビニもなければ、夜遅くまで営業する店もほとんどない。しかし、だからこそ奥尻島には本物の体験が残っている。漁師とともに暗い海に出て、自分の手でイカを釣り上げ、その場で食す。デジタルに囲まれた日常から離れ、潮風と星空と漁火だけの世界に身を置く夜は、きっと一生の記憶に刻まれるだろう。旅慣れた人ほど、この島の静かな魅力に心を奪われるに違いない。
アクセス
江差港からフェリーで約2時間20分
営業時間
19:00〜22:00(要予約、6月〜10月)
料金目安
5,000〜8,000円