尾道の路地を歩くと、どこかで猫と目が合う。そんな体験ができる場所が「猫の細道」だ。坂の町・尾道を代表する観光スポットとして、国内外の猫好きや旅人から愛されるこの細道には、アートと自然と生き物が共存する、他にはない空間が広がっている。
猫の細道とは
猫の細道は、尾道市東土堂町に位置する、全長約200メートルの細い坂の路地だ。尾道で最も古い神社のひとつとされる艮神社(うしとらじんじゃ)の左脇を進んだ先に続き、天寧寺の三重塔付近まで続いている。古くから境内のクスノキに守られるように存在してきたこの路地は、かつては人目につきにくい静かな場所だった。
この路地が「猫の細道」という名で広く知られるようになったのは、1998年のことだ。芸術家・園山春二氏が丸い石に猫を描いた作品「福石猫」をこの路地に置きはじめたことがきっかけとなり、やがてその愛称が定着していった。現在では周辺に古民家を改修したカフェ、バー、雑貨ショップ、美術館、庭園などが点在し、アートと生活が溶け合う独特の景観が形成されている。
「猫の細道」という名前の由来
「猫の細道」という名前には、芸術家・園山春二氏の深い思想が込められている。園山氏は作家・宮沢賢治と縁が深く、賢治が理想とした楽園「イーハトーヴ」を尾道の地に実現しようと、「尾道イーハトーヴ」という空間プロジェクトを主催している。このプロジェクトは宮沢家からも公認を受けており、宮沢賢治に関連したイベントも不定期で共同開催されている。
名前の由来は、宮沢賢治の故郷・岩手にゆかりのある松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」にある。「奥の細道」の「奥」を「猫」に置き換えることで、「猫の細道」という名が生まれた。宮沢賢治の理想郷という精神的な背景と、猫が住み着く尾道の細い路地というローカルな風景が結びついた、遊び心あふれるネーミングだ。
福石猫が出迎えるアートの路地
猫の細道を歩いていると、道端や石垣のそこかしこに丸い石に描かれた猫の絵が目に入る。これが園山春二氏の代表的な作品「福石猫」だ。1998年に路地へ置かれはじめて以来、尾道の町全体に広がり、現在では1000匹以上の福石猫が尾道各所にすみついているという。
それぞれの福石猫には個性があり、恋愛成就や健康回復といった不思議な力を持つといわれる子、テレビCMに出演した子、旅に出てしまった子など、さまざまなエピソードを持つ猫たちが生まれている。福石猫の里親になることも可能で、気に入った一匹を迎え入れる旅人も少なくない。
また、道沿いの階段には「階段猫アート」と呼ばれる環境アートも見られる。石段のひび割れを猫の姿に見立てた絵で、足元をしっかり見て歩いてほしいという園山氏の心遣いから生まれた作品だ。自然の中に溶け込むアートを探しながら歩く楽しさも、猫の細道の魅力のひとつといえる。
廃屋が再生される「尾道イーハトーヴ」の哲学
猫の細道沿いには、古民家を改修したユニークな施設が複数立ち並んでいる。これらはすべて「尾道イーハトーヴ」の理念のもと、園山氏が手がけた「シャトー(再生古民家)」だ。園山氏が古民家改修に込めるテーマは「創造と再誕」。ほぼ廃屋となった建物ほど、再生の余地があり、理想郷づくりに近づく素材になると考えている。
こうして生まれた空間には、カフェや小物ショップ、ギャラリーなどが入り、訪れる人が休憩や買い物を楽しめる場となっている。路地を歩きながらひとつひとつの建物を眺めると、廃れた空間が丁寧に息を吹き返している様子が伝わってくる。訪れるたびに新たな発見があるともいわれており、リピーターが多いのもうなずける。
2020年に誕生した新名所「NYAHANの庭」と猫涅像
2020年には、猫の細道に新たなランドマークが加わった。「猫涅像(にゃはんぞう)」と「NYAHANの庭」だ。
猫涅像は「涅槃(ねはん)」から着想を得た名前だが、死のイメージではなく、お昼寝している黒猫をモチーフにしている。新型コロナウイルスが流行するなかで制作されたこの作品には、猫がのんびり寝ているように、おだやかな気持ちを忘れずに過ごしてほしいという願いが込められている。黒い色には魔除けの意味もあるとされ、コロナ退散の祈りも重ねられた。
NYAHANの庭は、2018年の西日本豪雨災害で発生したがれきを活用してつくられた庭園だ。「がれきの山を見て宝の山、もったいないと思った。全部片付けてしまうことだけが復興ではない」と語る園山氏の言葉が、この場所の成り立ちを端的に表している。猫涅像が横たわる築山には200個分の土壌が使われ、アプローチや花壇の縁取りにも多数の瓦が活かされている。災害の爪痕を次の美しさへと転換するその姿勢は、尾道イーハトーヴが大切にする「創造と再誕」の哲学そのものだ。
猫たちと人が共存する尾道の日常
猫の細道が多くの猫好きを惹きつける理由のひとつが、実際に生きている猫たちの存在だ。尾道は漁港を持ち、坂道や細い路地が多いことから昔から猫が多く住む港町として知られてきた。近年は「地域猫活動」として、人と猫が快適に暮らせる環境づくりにも取り組んでいる。
猫の細道周辺をうろつく猫のほとんどは地域猫であり、尾道イーハトーヴもその世話に関わっている。また、「猫の楽園」と呼ばれる最新スポットには飼い猫も暮らしており、写真家・岩合光昭氏にも撮影された「あられ」「あんず」「あんこ」の3匹が人気を集めている。訪問者が多い日には店長役を務めることもあるという、個性豊かなアイドル猫たちだ。
尾道を訪れたなら、ぜひ時間をかけてこの細道を歩いてほしい。石畳の坂を上りながら福石猫を探し、古民家カフェで一息つき、路地の隙間から猫と目が合う。そんな時間が、この町の本当の魅力を教えてくれる。
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