金沢市内に三つある茶屋街のうち、最も規模が小さく、最も静かなのが主計町茶屋街である。浅野川の東岸に沿ってひっそりと佇むこの一帯は、観光客が集中するひがし茶屋街から徒歩数分の距離にありながら、訪れる人の数はぐっと少ない。そのぶん、ここには観光地化されていない本物の静寂がある。川面を渡る風、石畳に響く足音、夕暮れどきに灯る行灯の明かり——主計町を歩くとき、人は金沢の時間の流れが今もこの場所に宿っていることを感じるだろう。
「主計町」の名前の由来と歴史
主計町という珍しい地名は、加賀藩の重臣・今枝民部主計(いまえだみんぶかずえ)の屋敷がこの地にあったことに由来する。江戸時代、浅野川沿いのこの一帯は上流の武家屋敷地と下流の町人地の境目にあたり、茶屋街としての賑わいを見せ始めたのは19世紀初頭ごろとされる。ひがし茶屋街・にし茶屋街とほぼ同時期に公許の茶屋町として整備され、芸妓衆が三味線を爪弾き、唄声を響かせる花街として機能してきた。
明治以降も花街の文化は続き、近代の著名な文人たちをも引きつけた。金沢が生んだ幻想小説の旗手、泉鏡花はこの浅野川界隈を深く愛し、自作の舞台に繰り返し描いた。主計町から川上に少し歩けば鏡花の生家跡があり、彼が幼少期に見上げた川の流れと格子戸の連なりは、今もほとんど変わらぬ姿で残っている。2008年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、この風景を守り伝えていく取り組みが制度的にも支えられるようになった。
街並みの見どころ——格子戸と二本の坂
主計町の魅力を語るうえで欠かせないのが、浅野川に面して建ち並ぶ茶屋建築の佇まいである。一階に太い縦格子を連ねた「出格子(でごうし)」、二階へと続く白壁と木の調和——これらは加賀百万石の繁栄が生み出した意匠の粋であり、茶屋という場の格式を静かに物語っている。現在も料亭や茶屋として営業を続ける建物がある一方、カフェやギャラリーとして活用されている町家も増え、伝統と現在が緩やかに交わる空間になっている。
街を歩く際にぜひ訪れてほしいのが、二本の坂道だ。ひとつは「暗がり坂(くらがりざか)」。その名のとおり、昼なお薄暗い石段の坂で、柳の枝が垂れ、茶屋の裏側へと続く細い路地は、まるで時代劇の一場面のような趣がある。かつて芸妓たちが人目を忍んで料亭へと向かったと伝えられ、この坂を下るだけで非日常の空気に包まれる。もうひとつは「十間坂(じっけんざか)」。こちらはやや広く明るい坂で、浅野川の川面と向かい岸のひがし茶屋街の屋並みを一望できる絶好のビュースポットとなっている。
浅野川が彩る四季の表情
主計町の風景は、浅野川と切り離して語ることができない。川に臨む茶屋の建物が水面に映り込む様子は、時間帯や季節によって表情を大きく変え、訪れるたびに異なる感動を与えてくれる。
春には浅野川大橋から主計町にかけて桜が咲き、川面をピンク色に染める花筏が見られる。茶屋建築の格子戸と満開の桜の組み合わせは、金沢の春を代表する風景のひとつだ。夏には「主計町夏祭り」が開かれ、浴衣姿の人々が行き交う中、川沿いの行灯に灯りがともる。夕涼みがてら川岸に腰を下ろし、水の音を聞きながら過ごす時間は格別である。秋は紅葉こそ少ないものの、しっとりと落ち着いた空気の中で建物の質感がより際立ち、写真撮影に訪れるカメラマンも多い。冬の金沢は雪が深く、雪化粧した格子戸と石畳の対比は、この町の美しさを凝縮したような光景を生み出す。
アクセスと周辺の見どころ
主計町茶屋街へのアクセスは、金沢駅からバスが便利だ。北陸鉄道バスの橋場町(はしばちょう)停留所で下車し、浅野川大橋を渡ってすぐの場所に位置する。徒歩でも駅から約20〜25分ほどで到着できる。
周辺には見どころが密集している。徒歩数分のひがし茶屋街は、主計町と対照的な華やかさをもつ金沢最大の茶屋街で、金箔工芸品や和菓子の店が連なる。さらに少し足を延ばせば、泉鏡花記念館や老舗和菓子店が点在する「東山」エリアへと続く。浅野川大橋を対岸に渡り、川沿いを少し歩けば「にし茶屋街」方面へのバスにも乗り継げるため、金沢三茶屋街をひとつの散策ルートでめぐることも十分に可能だ。
なお、現在も営業している料亭や茶屋は基本的に一見(いちげん)お断りの場合が多いが、日中はカフェや土産物店として開放している建物もある。夜間は行灯が灯り、昼とはまた異なる幻想的な雰囲気に包まれるため、余裕があれば夕方以降にも足を運んでみてほしい。
静けさの中にある本物の金沢
主計町茶屋街は、賑やかな観光地ではない。それがこの場所の最大の価値である。石畳を歩くとき、格子戸の向こうから聞こえる三味線の音色に耳を澄ませるとき、浅野川の流れを橋の上から見下ろすとき——ここでは金沢という都市が積み重ねてきた数百年の時間を、静かにしかし確かに感じ取ることができる。加賀百万石の文化は博物館の展示物の中だけにあるのではなく、この川沿いの小さな茶屋街に今も生きている。旅の余白にひっそりと立ち寄るだけで、金沢への理解と愛着が深まる——そんな場所が、主計町茶屋街である。
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