東京・墨田区の静かな住宅街に、江戸時代の風雅がそのまま息づく庭園がある。向島百花園は、花と文学と人情が交差する下町の隠れた名所として、今も多くの人に愛され続けている。
江戸の文人たちが育てた花の楽園
向島百花園の歴史は、文化元年(1804年)に始まる。仙台出身の骨董商・菊屋喜兵衛が、当時の文化人や俳人たちの協力を得て、隅田川東岸の向島の地に開いたのがその起源だ。「百花園」という名は、単に多くの花が咲く庭を意味するのではなく、「梅は百花の魁(さきがけ)」という言葉に由来するともいわれており、百種の花が咲く文学的な庭を目指した志が込められている。
開園当初から、この庭は江戸の文人墨客たちにとっての社交の場であり、創作の場でもあった。俳人・酒井抱一や大田南畝など、当代一流の文化人たちが足繁く通い、詩を詠み、絵を描いた。彼らが実際に園内に石碑や句碑を残したことで、庭はそのまま江戸文化の生きた記録となっている。現在も園内には数多くの石碑が点在し、散策しながら往時の文化人たちの息吹を感じることができる。
明治以降も民間の花園として一般に親しまれてきたが、1938年(昭和13年)に東京市に寄付されて公立の庭園となり、1978年(昭和53年)には国の名勝及び史跡に指定された。江戸時代から続く歴史的価値が公式に認められた瞬間である。
9月の主役・萩のトンネル
向島百花園の一年のクライマックスといえば、なんといっても9月に見頃を迎える「萩のトンネル」だ。園内に設けられたトンネル状の竹の骨組みに、宮城野萩をはじめとする数種の萩が仕立てられ、枝が頭上を覆うように垂れ下がる。その高さは約2メートル、長さは数十メートルにわたり、秋風に揺れるピンクや白の小花のアーチの下をくぐり抜けると、まるで花の帳(とばり)の中に迷い込んだかのような感覚を覚える。
萩は万葉集の中でもっとも多く詠まれた植物であり、古来より日本人に愛されてきた秋の七草のひとつだ。「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」と詠まれた紅葉とともに、秋の風情を代表する存在として詩歌の世界に深く根を張っている。向島百花園の萩のトンネルは、そうした文学的な背景を持つ植物を最大限に美しく見せる演出として、長年にわたって人々を魅了してきた。
見頃は例年9月中旬から下旬にかけてで、開花の状況によって多少前後する。混雑を避けるなら平日の午前中がねらい目だが、週末に訪れても、流れる風とともに香り立つ萩の気配は十分に楽しめる。
万葉の草花と四季の花ごよみ
向島百花園のもうひとつの大きな特徴は、万葉集に詠まれた草花を中心に植栽されているという点だ。梅・桜・菖蒲・萩・菊・水仙など、約230種にもおよぶ植物が、それぞれの季節に花を咲かせ、訪れる人を一年中楽しませてくれる。
春の主役はなんといっても梅だ。早ければ1月下旬から咲き始め、2月から3月にかけて園内は梅の香りに包まれる。菊屋喜兵衛が梅を愛したことから、創設当初から多くの梅が植えられており、紅白さまざまな品種が楽しめる。梅まつりの時期には多くの見物客が訪れ、下町の冬の終わりを彩る風物詩となっている。
夏には菖蒲や桔梗が咲き、緑濃い園内に清涼感をもたらす。秋には萩に続いて菊が主役となり、10月から11月にかけての菊まつりでは丹精込めて育てられた菊の花が展示される。冬には水仙が静かに花を開き、季節の移ろいを穏やかに告げる。どの季節に訪れても、何かしらの花が出迎えてくれるのが向島百花園の大きな魅力のひとつである。
隅田川七福神と下町文化の薫り
向島百花園は、花の名所であるだけでなく、信仰と文化が重なる場所でもある。園内には福禄寿(ふくろくじゅ)が祀られており、「隅田川七福神めぐり」の一社として数えられている。隅田川七福神は、向島周辺の寺社に七福神を祀るもので、正月を中心に多くの参拝者が七社をめぐって歩く江戸時代から続く風習だ。
向島という地名が示すように、かつてこのあたりは隅田川の東側に広がる水郷地帯であり、江戸の人々にとって日帰り遊山の行楽地だった。舟で隅田川を渡り、桜の花見や草花の鑑賞を楽しんだ記録が多く残されており、向島百花園はその文化的な記憶を今に伝える場所のひとつだ。
園内を静かに歩けば、石畳の小径、古い石碑、素朴な東屋など、どこを切り取っても江戸の下町情緒があふれている。喧騒な観光スポットとは一線を画した静けさと品格があり、地元の常連客が四季の花を楽しみながら朝の散歩を楽しむ姿もよく見かける。
アクセスと周辺散策のすすめ
向島百花園へのアクセスは、東武スカイツリーライン「東向島駅」から徒歩約8分、または「曳舟駅」から徒歩約12分が便利だ。また、都営バスの「百花園前」バス停を利用する方法もある。東京スカイツリーのある押上駅からも徒歩圏内であり、スカイツリー観光と組み合わせて訪れる旅行者も多い。
周辺には、隅田公園や長命寺・弘福寺・白髭神社など、歴史的な社寺が点在する。向島の路地を歩けば、老舗の和菓子屋や料亭、昭和の面影を残す商店街など、下町の風景が楽しめる。長命寺の「長命寺桜もち」は江戸時代から続く名物で、向島を訪れた際にはぜひ立ち寄りたい一軒だ。
向島百花園は、入園料が比較的低廉で気軽に立ち寄れる庭園でありながら、江戸の文化と四季の花々が凝縮された深い味わいを持つ。日本の秋をじっくりと体で感じたいなら、萩の花が揺れる9月に足を運んでみてほしい。頭上を覆う花のアーチの下で静かに立ち止まれば、江戸の文人たちが愛した風雅の意味が、自然と胸に響いてくるはずだ。
액세스
東武スカイツリーライン東向島駅から徒歩8分
영업시간
9:00〜17:00(入園16:30まで)
예산
150円