甲府駅北口からわずか徒歩1分、近代的な駅前広場の一角に、明治時代の香りをまとった白壁の建物が静かにたたずんでいる。それが国指定重要文化財・甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)だ。明治の文明開化が生んだ独特の建築様式を今に伝えるこの建物は、甲府の歴史と文化を感じる絶好のスポットである。
明治の学舎がたどった150年の歩み
藤村記念館の前身は、明治8年(1875年)に現在の甲斐市にあたる巨摩郡睦沢村に建てられた「睦沢学校」の校舎である。明治政府が近代教育の普及を進めるなか、山梨県でも各地に新しい学校が設立されていった時代の産物だ。
その後、建物は昭和41年(1966年)に武田氏館跡(武田神社)の西曲輪へと移築された。この際、山梨県第5代県令として地域の近代化に尽力した藤村紫朗の名を冠し、「藤村記念館」と命名される。以来、歴史や民俗の教育資料館として市民に親しまれてきた。
そして平成22年(2010年)8月、甲府駅周辺拠点形成事業の一環として、現在の甲府駅北口へと再度移築・復元された。歴史景観の再生と、市民や観光客が気軽に立ち寄れる交流ガイダンス施設としての活用を目的とした、この3度目の"転生"によって、藤村記念館は甲府の顔として新たな役割を担うことになった。
「藤村式建築」とは何か
藤村記念館を語るうえで欠かせないのが、「擬洋風建築」あるいは「藤村式建築」と呼ばれる独特の建築様式だ。その名の通り、西洋建築の意匠を取り入れながらも、実際の施工は日本の大工や職人が手がけた建物を指す。
この様式を積極的に奨励したのが、県令藤村紫朗である。彼は明治初期に山梨県令として赴任し、近代化・文明開化の象徴として西洋風の官公舎や学校建築を県内に次々と建設・推進していった。その結果、甲府の街中には西洋式を模した建物が立ち並ぶようになり、その数と密度は当時の日本でも際立っていたという。
このことを記録に残したのが、明治10年(1877年)に甲府を訪れたイギリス公使のアーネスト・サトウだ。彼は日記のなかで、街中に西洋式建築が建ち並ぶ光景に驚き、まちの規模に比してその数は日本一だと書き残している。一人の外交官が記録に留めるほど、当時の甲府の洋風化は際立ったものだったのである。
建物に施された精緻な意匠
実際に建物を前にすると、和洋折衷の巧みさに思わず見入ってしまう。正面中央には玄関車寄せが設けられ、2階にはベランダが広がる。柱は正面に向かって開放的な円柱が立ち、出入口や窓には黒塗りのアーチ形の枠が施されている。そして両開きのガラス戸と鎧(よろい)戸による二重扉が、西洋建築のエッセンスを巧みに表現している。
一方、外壁をよく見ると漆喰(しっくい)塗りの日本壁であることがわかる。建物の隅には黒漆喰を用いて石積みを模した模様が描かれており、一見すると石造りのようにも見える職人の技が光る。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)と、日本伝統の工法を基本としながら、中央部には「太鼓楼」と呼ばれる塔屋がそびえている。
この塔屋こそが、藤村式建築の象徴的な意匠のひとつだ。西洋の鐘楼や望楼をヒントにしたとも言われ、和風の屋根の上に唐突にのせられたような存在感が、近代化の時代における職人たちの試行錯誤と熱意を感じさせる。
国指定重要文化財としての価値
藤村記念館(旧睦沢学校校舎)は、昭和42年(1967年)6月15日に国指定重要文化財(建造物)に指定されている。明治初期の擬洋風建築として、建築史的にも高い価値が認められているからだ。
明治維新後、日本全国で近代化の波が押し寄せたが、地方の職人たちが西洋建築を独自に解釈・消化しながら生み出した擬洋風建築は、日本の近代化の過程を示す貴重な証人でもある。現存する擬洋風建築自体が全国的にも少なく、なかでも藤村紫朗が推進した「藤村式建築」の流れを直接汲む建物として、その史料価値は計り知れない。
約150年の時を経てなお、白壁の輝きと独特のシルエットを保ち続けるこの建物は、山梨・甲府の近代化の歴史そのものと言えるだろう。
アクセスと訪問のポイント
藤村記念館は甲府駅北口から徒歩わずか1分という、抜群の立地にある。観光やビジネスで甲府を訪れた際にも、駅から気軽に足を運べるのが大きな魅力だ。交流ガイダンス施設として整備されており、甲府・山梨の歴史や観光情報を得る拠点としても活用できる。
問い合わせ先は電話番号055-252-2762(藤村記念館)、または甲府市生涯学習室歴史文化財課(055-223-7324)へ。甲府城跡(舞鶴城公園)や武田神社といった甲府の主要史跡と組み合わせて巡るのもおすすめで、明治から戦国時代まで、山梨の歴史を一日で堪能するコースが組める。駅前にこれほど充実した文化財が佇む都市は珍しく、甲府観光の起点として、まず最初に立ち寄りたいスポットだ。
액세스
甲府駅北口(徒歩1分)
영업시간
예산